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元勇者の迷宮探索者《ダンジョンシーカー》   作者: クロウィン
第一章:帰る場所なき者の夏の旅路
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第一章:帰る場所なき者の夏の旅路(3)

ヴィクターラスさんが寮を訪ねてきた、その翌日。


俺は学園長室へ向かうため、教務棟の廊下を歩いていた。


「……」


目の前を横切った黒い塊を、俺は意識的に視界の外へ追いやった。


ハウゼンさんに呼ばれ教務棟を歩く間も、左目にだけ映る黒い塊は相変わらず視界にまとわりついていた。


とは言え、今の俺にできることはない為、昨日と同じように無視して歩き続けた。

やがて、学園長室の前へ辿り着いて扉をノックする。


「入りたまえ」


失礼します、と一言告げて中へ入る。


中へ入った瞬間、まず目に飛び込んできたのは書類の山だった。


「おお、アベルマス君。いきなり呼び出してすまなかったの」


柔らかな声とともに迎えたのは、いつも通り穏やかなハウゼンさんだ。


だが、その穏やかな学園長の姿を危うく見失いかけた。


机の上はもちろん、周囲の棚や脇机に至るまで書類が積み上がっている。


本当にそのうち書類の山に埋もれてしまうのではないかと、一瞬本気で思ったほどだ。


そしてその脇では、ベアトリーチェさんが何事もないような顔で紅茶の用意をしていた。


「アベルマス君、いらっしゃい。体調はもう大丈夫そうね」


「はい。おかげさまで」


そう答えると、ベアトリーチェさんは優雅に微笑んだ。


ハウゼンさんは机から離れると、応接用のソファへ俺を促し、自分もその向かいへ腰を下ろした。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


ハウゼンさんと俺がソファに腰を下ろすのとほぼ同時に、ベアトリーチェさんが二つのカップを卓へ置いた。


忙しさとは無縁のような所作だったが、その直後、彼女はすぐにハウゼンさんの机の横にある別の机へ移る。


そこにもまた書類が山と積まれていた。


ベアトリーチェさんが腰を下ろすと、その小柄な姿は書類の壁にほとんど隠れてしまい、顔さえ見えなくなった。


……いや、見えていないだけで普通に仕事はしているらしい。


しばらくすると、その向こうから聞こえてくるのは、間欠的に走るペンの音と、乾いた印を押す音ばかりだ。


……この光景にどんな顔をすれば正解なのか、少し分からない。


そんな俺の内心など見透かしたように、ハウゼンさんが苦笑を漏らした。


「今日アベルマス君を呼んだのは、他でもない。期末試験についてでね」


そう切り出してから、ハウゼンさんは紅茶を一口含んだ。


「すでに友人たちから聞いているかもしれんが、君が倒れていた間に期末試験は終わっておる」


「はい。聞きました」


イチが散々文句を言っていたせいで、嫌でも印象に残っていた。


「本来ならば、試験を受けられなかった君には別途試験を用意するべきなのだが……」


そこで言葉が途切れた。


ハウゼンさんの視線が、机の上だけではなく部屋中の書類の山へ向く。


その仕草だけで十分だった。


「……かなり、お忙しそうですね」


そう言うと、ハウゼンさんは肩をすくめるように笑った。


肯定も否定もしなかったが、その表情だけで十分に答えは伝わってくる。


そういえば、あいつらも言っていた。


白の地下聖堂(ホワイト・カテドラル)の異変の後処理と対策で、学園全体が追われている、と。


「今の状況では、アベルマス君一人のために時間を割ける教員もなかなかおらんのだよ」


そこで短く息をつき、それでもハウゼンさんはいつもの温和な笑みを崩さなかった。


「そこでだ。試験の代わりに、一つ君へ提案をしたいのだが」


「提案、ですか」


俺が首を傾げると、ハウゼンさんはどこか悪戯っぽい顔になった。


「アベルマス君、旅は好きかね」


「……旅?」


あまりにも予想外の言葉に、俺はしばらく何も返せなかった。




・ ・ ・




翌朝。


俺は少ない荷物をまとめ、学園入口の近くでぼんやりと立っていた。


ハウゼンさんの提案というのは、要するに別の都市で迷宮に関わる機会を与える、という話だった。


正確には、民間探索者ギルドでの実地研修。


およそ三週間、現地の民間ギルドに身を寄せ、雑務も含めた実務に触れながら、探索者とは何かを学ぶ。


そういう課題が、試験の代替として与えられたのだ。


考えてみれば悪い話ではない。


俺の目的は、消えた時代の痕跡を探ること、そしてなぜそれが消えたのか、その手がかりを見つけることだ。


そのために迷宮を調べたいのであって、なにもここ、グロリスの迷宮にこだわる理由は特にない。

 

むしろ、異なる土地の迷宮へ触れる機会が増えるのなら、それは願ってもない機会だった。


今は白の地下聖堂の立ち入りも禁じられている。


そういう意味でも、都合がよかった。


そして今、俺は目的地まで案内してくれる人物を待っている。


……まあ、その案内人が誰なのかは、もう分かっているのだが。


「待たせたかな。悪いの。出発する前にできるだけ仕事を片づけておきたくてね」


聞き慣れた穏やかな声。


振り向くと、そこには小さな鞄を手にしたハウゼンさんがいた。


今回向かう民間ギルドは、ハウゼンさんのかつての仲間が興したもので、今はその息子が束ねているらしい。


そういう縁もあって、今回の話が通ったのだという。


また、ハウゼンさん自身が途中まで同行するのも、俺の案内だけが理由ではないらしい。


旧知の相手へ顔を見せることも、今回の目的の一つだと聞いている。


……その説明自体を疑っているわけではない。


ただ、何となく。ほんの少しだけ。


段取りがよすぎるような、そんな妙な引っかかりが心の隅に残った。


だが、その正体は分からないし、少なくとも俺に害があるようにも思えなかった。


結局、その違和感も今は脇へ押しやることにする。


「では、行こうか」


「はい」


俺はハウゼンさんの背中を追って歩き出した。


ふと、途中で振り返る。


背後に見えるグロリス学院。


こうして外から、出立の気分で学園を見るのは初めてだ。


そのまま何となく視線を残したまま歩いていて、そこで今さらのように気づいた。


――そういえば、俺はまだこの時代の街というものをまともに見たことがない。


千年以上が過ぎた時代。


それでも学院の中でそれなりに過ごし、授業も受け、この時代へも少しは馴染んだつもりでいた。


だから、街へ出たところで多少珍しいものがある程度だろう。


そんなふうに、どこか軽く考えていた。


――そう、思っていたのだが……


街へと続く緩やかな坂道を下りきった瞬間、その認識がどれほど甘かったかを思い知らされた。


「……」


最初に押し寄せてきたのは、音だった。


人の声。


呼び込み。


笑い声。


車輪の軋み。


荷を担ぐ足音。


金属を打つ音。


何かに喜ぶ声。


その全てが折り重なり、一つの大きな塊となって耳へ流れ込んでくる。


次に見えたのは、人の流れだった。


多い。


とにかく、人が多い。


広く取られたはずの通りが狭く見えるほどに、人が絶えず行き交っていた。


その時点で、頭の中が一瞬真っ白になった気がした。


どこを見ればいいのか分からない。


視線をあちこちへ向けて、ようやく一つずつ景色が形を持ち始める。


きれいに整えられた石畳。


通りの要所ごとに立てられた魔素灯。


学園の建物にも劣らない、いや、下手をすれば貴族の屋敷かと思うような立派な建物がずらりと並んでいる。


その間を、夥しい数の人々が行き交っていた。


魔獣素材や魔素核を並べた露店。


迷宮で得られた素材を加工すべく、忙しそうに手を動かしている職人。


それを面白そうに覗き込む者たち。


大量の食材を広げ、客と値段の駆け引きをしている商人。


誰もが、この時代の生活を当然のものとして送っている。


――そして。


ふいに視界の端を、小さな影が横切る。


子供だった。


一人ではない。


二人、三人と、笑いながら人の間を縫うように駆け抜けていく。


互いに追いかけ合い、ふざけ合い、ときには道端で何かを囲んで屈み込み、また声を上げて笑う。


一人がもう一人の手を引き、また別の子が何か小さな玩具のようなものを掲げて、それを囲んで笑い合っている。


その姿を見た瞬間、胸の奥にあった何かがふっと緩んだ。


張り詰めていたものが、ほどけるように。


遠い昔の記憶が掠める。


いつ魔族が襲ってくるか分からず、いつ魔獣が村を踏み潰すか分からず、不安の中で怯えていたあの頃の子供たち。


あの時代に、こんなふうに街の真ん中で笑っていられる子供は、決して多くなかった。


気づけば、俺の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。


――ああ。


この時代は、平和なのだ。


心の底から、そう思えた。


もしかすると。


勇者だった頃の俺が本当に見たかったのは、勝利そのものではなく、こういう光景だったのかもしれない。


「この時代の街を見て、君はどう思うかね」


ふいにかけられた声に、俺は現実へ引き戻された。


いつの間にか、ハウゼンさんが穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ている。


「……すごい、です」


まず出たのは、そんな月並みな言葉だった。


それでも足りなくて、少し言い直す。


「とても、素敵だと思います」


ハウゼンさんは満足そうに顎髭を撫でた。


「そうか。それはよかった」


そして、再び歩き出す。


「もっとも、君にとってはこの先に待っているものの方が、さらに衝撃かもしれんがね」


そう言って向けられた表情は、昨日『旅は好きかね』と聞いてきた時と同じ、どこか悪戯っぽいものだった。


この上まだ驚くものがあるのか。


そんなことを思いながら後を追う。


勿論、俺はその間でも、落ち着かずあちこちをキョロキョロしていたことは言うまでもない。


俺たちは一際大きな建物の前へ辿り着いた。


正面には大きく、『グラロス駅』と掲げられている。


その瞬間だった。


建物の奥から、聞いたことのない重い音が響いた。


低く、腹の底へ沈むような唸り。


地を這うような振動。


そこへ混じる、硬いもの同士が擦れ合う鋭い音。


雷鳴にも似ているが、もっと人工的で、もっと鈍く重い。


鉄と魔素が、内側で軋み合っているような音だった。


「……何の音ですか」


「すぐに分かる」


ハウゼンさんはそう言うと、建物へ入っていく。


中へ入ると、すぐに『切符売場』と書かれた窓口が見えた。


「マルヴェル行きの切符を二枚」


ハウゼンさんは窓口の女性へそう告げ、聖貨を渡す。


やがて受け取った二枚の紙片のうち一枚を、こちらへ差し出した。


「ほら、君の分だ。マルヴェル行きだよ」


「マルヴェル……?」


「これから向かう港町だ」


そう簡単に説明されるが、今の俺にはそれどころではない。


先ほどの音が、間欠的にまた響いていたからだ。


ハウゼンさんは気にも留めず、俺を促して階段を上がり、いくつかの通路を抜ける。

そして。


視界が開けた瞬間、俺は完全に言葉を失った。


そこにいたのは、巨大な鉄の塊だった。


長い。


あまりにも長い。


何両もの箱が繋がれ、一本の巨大な胴体のように連なっている。


表面は黒鉄のような光沢を放ち、ところどころに魔素灯の明かりを反射させていた。


車体の内側からは、先ほど聞こえていたあの低い唸りが断続的に響いている。


その巨体が、まるで生き物のように、ゆっくりと震えていた。


最初に思い浮かんだのは、ただ一言だった。


――鉄の怪物。


「……なんだ、これは」


思わず口から漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。


ハウゼンさんは、そんな俺の反応をいかにも愉快そうに見つめている。


そして、階段を下りてその巨大な鉄の怪物へ近づき、こちらへ手を振った。


「さあ、アベルマス君。急ぎたまえ。まもなく出発するぞ」


……乗る?


これに……?


一瞬、本気で足が竦んだ。


「……乗るんですか、これに」


「当然だとも」


当然のようにそう言い、ハウゼンさんは何のためらいもなく鉄の怪物の中へ入っていく。


俺はしばらくその場に立ち尽くした。


だが周囲を見れば、他の人々は当然のような顔でその中へ入っていく。


荷物を抱えた商人。


子供の手を引く母親。


談笑する若者たち。


誰一人として、目の前の鉄塊を恐れている様子がない。


俺だけが取り残されたような気分になる。


迷った末、結局は俺も恐る恐るその後に続いた。


中へ入ってみると、印象は外見ほど物騒ではなかった。


天井には一定間隔で魔素灯が埋め込まれ、明るい。


広めの窓が通路に沿って並び、外の景色がよく見える。


内部には長く列をなすように椅子が置かれており、その多くは進行方向に向けて整然と並べられていたが、一部には向かい合わせになった座席もあった。


他の人たちはごく平然としていた。


椅子に腰かけて談笑する者。


目を閉じて休んでいる者。


荷物を膝に抱えて窓の外を見ている者。


皆、それを当然のものとして受け入れていた。


それがまた、妙に現実味を失わせた。


空いていた向かい合わせの席へ、ハウゼンさんが先に腰を下ろす。


俺はぎこちなくその向かいの椅子へ座った。


身体が妙に固い。


無意識のうちに、椅子の端へ浅く腰を下ろしていた。


その時だった。


再び、あの低い重音が響く。


同時に床下から、微かな震えが伝わってきた。


「……っ」


次の瞬間、車体全体が生き物のようにうごめいた。


反射的に背筋が伸びる。


手は勝手に椅子の肘掛けを掴んでいた。


それを見たハウゼンさんが、実に楽しそうに顎髭を撫でる。


最初はゆっくりだった。


だが、わずかな時間で景色の流れが変わる。


窓の外の建物が後ろへ滑っていき、次いで街並みそのものが、見る間に遠ざかっていく。


速い。


あまりにも速い。


巨大な鉄の怪物は、その質量を感じさせぬほど滑らかに、そして凄まじい速さで走り出していた。


あまりの速度に、しばし息をするのも忘れた。


俺はしばらく、言葉もなく窓の外を見つめていた。


――こうして。


この時代で迎えた最初の夏、俺は旅に出た。


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