第一章:帰る場所なき者の夏の旅路(2)
「ヴィクターラス……?」
その名を聞いた瞬間、俺は眉をひそめる。
聞き覚えがある名前だ。
一瞬だけ思考が空転し、すぐに思い当たった。
――魔素観測装置の依頼主。
白の地下聖堂に設置するように依頼していた人物。
さらに脳裏の奥で、ラミアールが珍しく熱のこもった様子でその名を語っていたのを思い出す。
たしか、魔素工学の権威だとか、研究者でありながら貴族位を授かった唯一の人物だとか、そんな話だったな。
先ほどの口ぶりからして、どうやら俺に用があるらしい。
「私は現在、迷宮異変の調査に協力していてね」
男――ヴィクターラスさんは、穏やかな声音のまま続けた。
だが、その目だけは相変わらず底が見えない。
「今回の件について、最後に話を聞けていない生徒が君だけだった。ウィドバーグ君、少し時間をもらえるかな。なに、君の時間を長く奪うつもりはない」
病室で仲間たちと話した時のことが蘇る。
調査団が迷宮の異変調査で生徒たちから証言を集めていた、ということを。
「……とりあえず、中にどうぞ」
そう言うと、ヴィクターラスさんは小さく頷いた。
俺は彼を寮内のラウンジへ案内した。
夏休みに入り、人の気配がほとんど消えたラウンジは、昼間だというのに妙に広く感じられた。
窓から差し込む陽光が床を白く照らし、置かれたソファやテーブルまでがどこかよそよそしく見えた。
向かい合うようにソファへ腰を下ろす。
しばし短い沈黙が落ちたあと、ヴィクターラスさんが静かに口を開いた。
「まずは、今回の迷宮での異変について謝罪をしよう」
「……謝罪、ですか?」
思わず聞き返してしまった。
ヴィクターラスさんは「ああ」と頷くと、持っていた鞄の中から細長いものを取り出した。
金属製の円筒の物体。
見覚えのある形状だ。
「それは……」
間違いなく、魔素観測装置だった。
俺たちが依頼で白の地下聖堂へ設置し、回収したものだ。
その姿を見た瞬間、自然と視線が吸い寄せられる。
迷宮へ設置した時、あの装置の周囲には、糸のような妙なものが見えていた。
回収した時には、もう見えなかったけど。
今、こうして目の前に置かれた装置の周囲にも、やはり外側には何も見えない。
「……?」
そう思った次の瞬間、視界の端に、何かが引っかかる。
俺は思わず、もう一度装置を見た。
……外側ではない。
円筒内部。
中心に据えられた魔素核。
その周囲に、黒く濁った細糸のようなものが、魔素核を薄く絡め取るように巻き付いているのが見えた。
一瞬、息が止まる。
「どうかしたかね?」
ヴィクターラスさんの声に我に返る。
顔を上げると、彼は怪訝そうに俺を見ていた。
話すべきか。
一瞬だけ迷う。
だが、これも俺にしか、正確にはこの左目にしか見えていないものだとしたら、余計に話がややこしくなるだけだ。
今この場で説明しても、うまく伝えられる気がしなかった。
「……いえ。なんでもありません」
そう言って首を横に振る。
「そうか」
ヴィクターラスさんはそれ以上問い詰めなかった。
ただ――気のせいか、ほんの一瞬だけ、その目が冷たく光ったように見えた。
「私が謝罪したいというのは、これに関してだ」
彼は手元の観測装置へ一度だけ視線を落とした。
「詳細は現在も調査中で、まだ確定したことは言えない。したがって現時点では仮説の域を出ないが――この装置が、君たちが遭遇した『黒き霧の魔獣』の件と無関係ではなかった可能性がある」
「……それは。」
言葉を継げずにいる俺を前に、ヴィクターラスさんは短く頭を下げた。
その所作自体は丁寧だった。
「もっとも、それがどのような経路で、どの程度影響したのかはまだ不明だ」
そう言って顔を上げると、ヴィクターラスさんはすぐに声音を切り替えた。
「その件も含め、調査協力という形でいくつか質問に答えてもらいたい」
結局、そこで断る理由もなかった。
「……分かりました」
ヴィクターラスさんは小さく頷き、淡々と質問を始めた。
黒き霧の魔獣を最初に見た時の印象。
どのような形をしていたか。
どこまで記憶が残っているか。
第六層のクレーターについて何か心当たりはあるか。
自分たち以外に、あの場に誰かがいた可能性はないか。
俺としては、覚えている限りのことを正直に答えたつもりだった。
だが、肝心なところになるとどうしても記憶が抜け落ちている。
ニナが倒れたこと。
仲間たちが倒れていたこと。
そこまでは覚えている。
だが、その後がない。
クレーターについても、気づいた時にはすでに保護された後であり、俺自身には何も説明できなかった。
他に誰かいたか、という問いにも首を横に振るしかない。
そして――気のせいかもしれないが、会話が進むほどに奇妙な息苦しさだけが増していった。
ヴィクターラスさんは穏やかに頷き、必要なところでだけ短く問いを挟む。
無礼でも高圧的でもない。
なのに、どこか息が詰まる感覚があった。
「なるほど」
ヴィクターラスさんは相槌を打ちながら、時折小さく手帳へ何事かを書き留めていった。
そして、彼が手帳を閉じたのを見て、これで終わりかと妙な安堵を覚えた、その刹那。
彼は、ふと何でもないことのように言った。
「最後に一つだけ。これは純粋な興味なのだが」
そのとき、ヴィクターラスさんの視線が、まっすぐ俺の左目に向いた。
「その左眼は、どうしたのかね」
ぞくり――
一瞬、背筋に冷たいものが走る。
まただ。
問い自体は静かだった。
なのに、その一瞬だけ彼の視線が奇妙に無機質なものへ変わったように感じた。
あまり良い気分ではなかった。
だが、ここで動揺を見せるわけにもいかない。
これは編入時にも使った、自分のための設定だ。
「……この目に関しては、俺にも分かりません」
なるべく平静を装って答える。
「生まれつきだと、親からは聞いています。視界に特に問題があるわけでもありません」
ヴィクターラスさんはすぐには答えなかった。
こちらを見つめたまま、ほんの数秒だけ沈黙する。
まるで、今の返答そのものより、その言い方や間合いを考えているようだった。
やがて彼は静かに視線を落とし、手帳に何かを書き加えた。
「そうか。いや、すまなかった。どうにも気になることは我慢できない性分でな」
短く謝罪し、ヴィクターラスさんは立ち上がった。
「それでは私はこれで失礼するよ。協力、感謝する」
彼は観測装置をしまい、荷物を整える。
俺は立ち上がることもできず、そのまま彼の背中を目で追った。
ラウンジを出ていく白い外套。
玄関の扉が閉まる音がした。
その音を聞いて、ようやく俺は大きく息を吐いた。
知らず知らずのうちに、身体に力が入っていたらしい。
そっと手を開くと、掌は薄く汗で濡れていた。
――緊張、していたのか。
だからと言って、強い剣士や、かつての魔族を前にした時の緊張とは違う。
あれはもっと分かりやすいものだった。
目の前に危険があり、それを斬るか斬られるか。
だが今感じている疲労は、それとはまるで質が違った。
深さの分からない沼へ、足元から静かに引き込まれていくような疲労感。
「……ラミアールには悪いけど、俺はあの人が苦手だ」
ぽつりと零れた独り言は、誰の返事もないラウンジに吸い込まれていった。
・ ・ ・
「アベルマス・ウィドバーグ、か」
グロリス学院の敷地をゆっくりと歩きながら、ヴィクターラス・エルド・ヴァイスマンは、先ほどまで向かい合っていた少年のことを思い返していた。
口元には、ごくわずかな笑みが浮かんでいる。
最初は、ただ情報を得るために訪れたに過ぎなかった。
それ以上でもそれ以下でもない、そういう認識――だった。
だが、話してみればいくつもの違和感が浮かび上がってきた。
歩きながら、彼はわずかに目を細める。
まず、視線。
観測装置を取り出した時、彼の視線はどこか異質だった。
装置を見ていた、というよりは――その周辺を、あるいは内部の何かを確かめるような視線だった。
最後には、装置のある一点を見てほんのわずかに眉を寄せてもいた。
あの視線が何を意味していたのかは分からない。
しかし、少なくとも今まで同じように接触してきた他の生徒たちとは反応の質が違う。
――次に、記憶。
彼の仲間たちは、そろって自分が倒れた後のことは覚えていないと証言している。
だが、アベルマス・ウィドバーグだけは違った。
彼は、自分が倒れた後ではなく、仲間が倒れた後のことが抜け落ちていると答えた。
一見すれば些細な表現の差に過ぎない。
だが、その差は小さくない。
少なくとも、彼だけは最後まで他者を観測していたことになる。
そのうえで、そこから先だけが抜け落ちている。
彼だけ明らかに異なる。
それは偶然か。
あるいは、欠落そのものに意味があるのか。
そして――左眼。
赤い。
しかも片眼だけが。
古い時代まで遡れば類例があった可能性は否定できない。だが、少なくともヴィクターラスの知る範囲では前例がない。
仮にそうだとしても、特殊過ぎるという点は変わらない。
ヴィクターラスは外套の内側から細身の装置を一つ取り出した。
そして――この反応。
彼が観測装置を取り出した理由は、何も謝罪のためだけではない。
先ほどの観測装置と連動させていた補助機構。
一定範囲内に存在する魔素反応を一時的に拾い、波形として補足するための小型機構だ。
大仰に構える必要もない。
会話の最中に起動しておけば、それだけで十分だった。
そして結果として、実に妙なものが出た。
表面には、先ほど記録されたばかりの魔素波形がまだ残っている。
線は三本。
一本は見慣れた自分自身のものだ。
そして残る二本。
――いや。
厳密には、二本と断じるのも正確ではない。
一つの波形の中に、別の波が不規則に食い込んでいる。
一本に見える。
だが、時折そこから枝分かれするように、別の形が現れる。
単純な機器不良も考えた。
だが、この観測板は現在も正常に動作している。
少なくとも再起動後の自己診断には異常がない。
ならば、記録そのものが真実である可能性を考慮するのが妥当だろう。
この波形の意味は分からない。
だが。
「前例がない」
ヴィクターラスは小さく呟いた。
一人の人間から観測される魔素波形としては、あまりに歪だ。
――だからこそ、価値がある。
最後の極め付き。
現段階で、第六層のあの破壊痕を生み出したのは誰か――その点において、最も有力な候補であることだ。
これに関しては、複数の可能性があった。
だが、それも絞られつつある。
まず、第三者介入の可能性。
この可能性は低い。
白の地下聖堂の入口には学院側の監視と衛兵の記録が残っている。
少なくとも、異変に遭遇した二つのパーティを除けば、その時間まで残っていたものはいない。
だからと言って、正規以外の経路で迷宮へ入った形跡もない。
次に、黒き霧の魔獣が自然消滅した可能性。
――ゼロではない。
あれは通常の迷宮魔獣とは明らかに性質を異にする存在だった。
突然消えたとしても、それだけなら説明はつく。
だが、その場合でも第六層のクレーターは説明できない。
あの規模の破壊痕が偶発的に生じたと考えるよりは、何者かの攻撃が黒き霧の魔獣を消滅させ、その余波として残ったと見る方がまだ自然だ。
他にもいくつか仮説はある。
生徒たちが何かを隠している可能性。
複数証言の錯綜。
あるいは迷宮そのものの異常作用。
だが、それらを一つずつ検討しても導かれる答えは似たようなものばかりだ。
除外。
却下。
否定。
不可。
論理的欠点。
可能性の低いものから排していけば――最後に残るのは、結局一つの仮説のみだ。
アベルマス・ウィドバーグ。
あの少年が、黒き霧の魔獣を消滅させた。
その結果として、あのクレーターが残った。
現時点で、確定と言えるほどの証拠はない。だが同時に、それを否定できる材料も持ち合わせていない。
無論、一人の中等部生徒にそんなことが可能なのか、という疑問はある。
しかし、その程度の疑問を理由に否定するなど、思考の放棄も同然だ。
それは否定の根拠にはならない。
既知の常識に収まらない事例である以上、常識そのものを一度保留する必要がある。
そう考えれば、今の時点でも十分な収穫と言えた。
「アベルマス・ウィドバーグ……」
その名をもう一度、味わうように口の中で転がす。
ヴィクターラスはかすかに笑った。
「……実に、興味深い素材だ」
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