第一章:帰る場所なき者の夏の旅路(1)
「ふう……」
やっと治療棟を出ることができて、思わずため息が漏れた。
意識を失っていた期間も含めれば、俺が治療棟にいた時間はおよそ四週間になる。
元々、同じ場所でじっとしているのは性に合わないと自覚があった。
そんな俺に「安静にしてください!」と言われても、それは無理な相談だ。
誰もいない時間帯にこっそり抜け出したりしていた。
今さらだが、我ながら大人げなかったと反省している。
まあ、さすがに素振りや型の稽古まではできなかったが。
抜け出しがばれた時の看護師の怒った顔は、子供に見せられない類のものだった。
……まあ、それはまた別の話だ。
そういった経緯で、俺はようやく解放されたわけだ。
目覚めて最初の頃は、身体の芯がどこか大きく削られてしまったような感覚が抜けなかった。
呼吸をするだけでも妙に身体が重く、少し動くだけで疲労が溜まる。
左目の視界も薄く霞み、景色全体に薄布でもかかったような頼りなさがあった。
だが、それも少しずつ回復していった。
一週間を過ぎる頃には、こっそり抜け出せる程度には身体も動くようになっていた。
今では身体の重さもほとんど消え、左目の視界も概ね元通りだ。
ベアトリーチェさんからも、日常生活に戻って問題ないだろうと言われている。
……もっとも、完全に元通りかと言われれば、そうでもなかった。
「……またか」
治療棟を出て道に沿って歩いていた俺は足を止めて"それ"を見つめる。
――左目だけに、妙なものが見えることがある。
黒く、濁った、輪郭も曖昧な小さな塊。
砂粒よりは大きいが、石ころと呼ぶにはあまりにも曖昧で、形も定かではない。
霧というには重たく、煤というには形を持ちすぎている。
それらは床の上に沈むように溜まっていたり、空気の中にふわりと浮いていたりする。
風もないのに揺れ、何かの拍子にかすかに集まり、また散っていく。
人がそのそばを通れば、まるで存在そのものが頼りないみたいに、ふっと崩れて消える。
とはいえ、完全に消えるというより、"散る"に近い。
散ったものは再び寄せ集められ、塊となる。
俺の見た限り、これはどこにも存在するように見えた。
一つや二つではない。
意識して見れば、そうした黒い微塵のような塊は、あちらこちらに存在していた。
最初は目の錯覚かと思った。
疲れの名残か、あるいは意識を失っていた後遺症のようなものだろうと。
だが、それにしては妙に輪郭だけが生々しい。
黒い。
ただ黒いだけなのに、見ているとひどく落ち着かない。
どこか――あの黒い霧の魔獣を思い出させる色だった。
左目を手で覆う。
やはり、右目だけで見ようとすると何も見えない。
左目で捉えた時だけ、そこにある。
「……」
それ以上考えようとすると、左目の奥がわずかに鈍く疼く。
だから今は、見えても気にしないことにしている。
気にしたところで正体がわかるわけでもないし、少なくとも現時点で実害はない。
そう自分に言い聞かせながら、その違和感を胸の奥へ押し込む。
そして、止めていた足を再び動かした。
治療棟の世話になってから、早くも四週間。
その間に、グロリス学院はすでに夏休みに入っていた。
校舎の気配は薄く、普段ならどこかしらから聞こえてくるはずの喧騒もない。
訓練場に響いていた掛け声も、廊下を駆ける足音も、食堂のざわめきも、今は遠いものになっていた。
教師たちの姿は時折見える。
だが、それだけだった。
寮へ戻る道すがら、視界の端でまた黒い小さな塊が揺れた。
石畳の隅に沈んでいたそれは、俺が歩み寄るより早く、陽炎のように崩れて消える。
見なかったことにして、そのまま歩く。
やがて辿り着いた中等部寮は、思っていた以上に静かだった。
扉を開けても、すぐには何の音も返ってこない。
人の気配が薄い。
いや、薄いというより――ほとんど、ない。
いつもなら誰かしらの声がしていた。
イチの大きすぎる笑い声。
ニナの弾むような声。
ラミアールの無駄に芝居がかった物言い。
ソニアの呆れたようなため息。
それらが当たり前のように混じっていた場所が、今はひどく広く感じられる。
ただ、しんと静まり返っている。
「……本当に、みんな帰ったんだな」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
脳裏に、少し前の光景がよみがえる。
――皆が帰る前、わざわざ治療棟へ顔を出してくれた時のことだ。
大きな荷物を抱えたイチが、相変わらずの調子で。
「戻ってきたらまた鍛え直しだぞ! また稽古とか付き合ってもらうからな! 絶対だぞ!」
と騒ぎ。
ニナはいつものようににこにこと笑いながら。
「アベル君、ちゃんと元気になってね! 今度会う時にはもっといっぱい話そうね! ……でも、無理はだめだよ?」
と何度も念を押してきた。
ラミアールは仰々しい口調で。
「それでは、我がライバルよ。達者でな。なに、心配することはない。たとえひと時離れ離れになっても貴様が我のライバルである事実は変わらんぞ!」
そしてソニアは。
「別に心配なんてしてないけど、あんたがそんな調子じゃ学園長にも迷惑だから。ただそれだけだから」
と最後まで素直ではなかった。
――いつも通り騒がしくて、少しだけ呆れて、それでも妙に心が落ち着いたのを覚えている。
皆それぞれに、戻る場所があった。
その時の俺にとっては、それがただ当たり前に賑やかな光景だった。
だが――
「……やっぱり、静かすぎるな……」
編入してから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。
むしろ、目を覚ましてからの時間だけで言えば、治療棟で過ごした時間の方が長いくらいだ。
それでも、この寮はいつの間にか自分にとって妙に馴染んだ場所になっていたらしい。
騒がしくて、落ち着かなくて、だが不思議と心が平穏になる場所。
そんな場所が、今は逆に胸を重くする。
――皆には帰る場所があり、そこへ戻っていった。
当然だと思っていたその事実が、形を変えて今度は胸に重くのしかかる。
故郷。
家。
帰省。
皆にとって当たり前にあるもの。
――そして、俺にはないもの。
千年前の時代に置いてきたものは、もうどこにも残っていない。
この時代で目を覚ました俺には、帰るべき場所と呼べるものが存在しない。
わかっていたことだ。
今さら驚くようなことではない。
……なのに、その事実は静かな寮の中で改めて形を持った。
部屋に荷物を置き、しばらくぼんやりと立ち尽くす。
このまま部屋にいても、余計なことばかり考えそうだった。
少し外の空気でも吸おうか。
そう思って再び扉へ手を伸ばした、その時だった。
――チリン。
玄関の呼び鈴が鳴った。
静まり返った寮に、その音だけが妙にはっきり響く。
夏休みに入った今、寮に生徒は誰一人残っていない。
今日ようやく治療棟を出た俺を除けば。
こんな時期に誰だろうか。
一瞬だけ不思議に思いながら玄関へ向かい、扉を開ける。
そこに立っていたのは、見覚えのない中年の男だった。
年の頃は四十代半ばほどだろうか。
灰色の髪はやや無造作だったが、不潔さは感じさせなかった。
身なりは整っている。
その身に羽織った白い外套は、あちこちが汚れ、変色していた。
長く使い込まれたものだということは一目でわかる。お世辞にも綺麗とは言えない。
だが、なぜかそれが様になっていた。
その顔には穏やかそうな表情が浮かんでいる。だが、どこか違和感がある。
――視線だ。
冷たい、というほど露骨ではない。
けれど、奥行きが見えない。
俺を見ていながら、俺ではないものを見ている。
そんな、どこか無機質な目だった。
男は俺の姿を確認し、わずかに口元を緩めた。
「君がアベルマス・ウィドバーグ君かね」
落ち着いた声だった。
「……そうですが」
どこか底の知れない男だった。
思わず身構えた俺を静かに見据えたまま、彼は自己紹介をした。
「私はヴィクターラス・エルド・ヴァイスマンという。少し、話をする時間をもらえるかな」
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