序章(第二部)(2)
グロリス学院、教務棟。
学園長室、教務室、医務室、行政室などが集まるその建物の一角にある会議室は、普段よりもはるかに重い空気に包まれていた。
普段は教師たちだけが使うはずの空間に、今日は見慣れない顔がいくつも混じっている。
王国から派遣された調査団――その面々だった。
長机はコの字に近い形で並べられ、その内側には学院側の教員たち、外周には王国から派遣された調査団の面々が着席している。
中央には、今回の報告のために持ち込まれた大型の魔素幻灯機が据えられていた。
黒鉄と黄銅で組まれた箱型の機体。前面には厚い硝子レンズ、側面には光量を調整するためのつまみ、背部には交換式の魔素核が収められている。
淡い光が満ち、白壁に像が投影されていた。
今しがたまで白壁に映し出されていたのは、白の地下聖堂の各階層ごとの構造図と、そこへ書き込まれた調査記録だった。
魔素幻灯機の脇に立つ若い調査員が、一枚の幻燈板を差込枠から抜き取り、次の板へと差し替える。
「こちらが調査結果を簡潔にまとめた資料になります。中でも、迷宮内で確認された異常として最も顕著だったのが――こちらの痕跡です」
直後、白壁に映っていた図表がふっと消え、別の像が浮かび上がった。
「な……」
「これほどとは……」
それを見た瞬間、数名の教員が息を呑む。
巨大な陥没痕。
最深部の石床を抉り取り、周囲の壁面にまで放射状の破砕痕を刻み込んだ、異様なまでに大きなクレーターだった。
それは自然な崩落ではない。
何かに破壊された、跡だった。
実際に現場調査へ加わっていなかった教員たちは、写真の現実味に一瞬言葉を失っていた。
これが学院生の実習に用いられていた第二等級迷宮の最深部で生じた痕跡だと言われて、すぐに飲み込める者は多くなかった。
「この破壊痕は第六層で確認されたものです」
調査員はその反応を待つことなく、淡々と報告を続けた。
「まず、生徒たちが証言した未確認魔獣については、迷宮内部にその個体、あるいは明確な残留痕を確認できませんでした」
低く、事務的な声だった。
「断定はできませんが、第六層に残されていたこの破壊痕の規模と状態から見て、当該個体はすでに何者かによって討伐されたものと推定されます」
その言葉に、会議室の空気がわずかに揺れる。
未確認魔獣の不在。
それは安堵の材料であると同時に、事態の不確かさをより強める報告でもあった。
調査員は手元の報告書へ目を落とし、一度だけ言葉を選ぶような間を置いた。
「なお、当該個体については、便宜上『黒き霧の魔獣』と仮称しております」
再び壁面に視線が集まる。
調査員は続けた。
「複数の生徒証言を照合した結果、当該魔獣は当初、およそ十アルト級の巨大な不定形存在として出現したものと考えられます。外見は黒い霧、あるいは煙のようであり、一定の形状を保っていなかったとのことです」
「……不定形、か」
誰かが低く呟いた。
調査員は頷きもせず、報告を続行する。
「さらに、生徒たちの証言には共通点があります。攻撃を受けた損傷部位が、短時間で修復されたとみられる点です」
その時点で、すでに常識の範囲を逸脱していた。
再生能力。
今まで目撃されているどの魔獣でも、そんな能力は確認されていないからだ。
かの『北天崩落』で出現した竜種すら、そんな能力は持ち合わせていなかったとされる。
明らかに、今までの魔獣の枠を逸脱している。
だが、調査員はそこで終わらなかった。
「加えて――」
一拍。
「当該個体は戦闘の推移に伴い、その形状を複数回変化させた可能性があります」
今度こそ、明確なざわめきが広がった。
調査員の表情は硬い。
報告している当人でさえ、この内容をどこまで信じるべきか測りかねているように見えた。
「証言によれば、当初の十アルト級不定形から、六アルト前後の四足獣型へ。さらに四腕で剣を振るう人型へ。そして最終的には、甲冑を纏った騎士を思わせる形態へと移行したとされています」
会議室の奥で、誰かが小さく椅子を軋ませた。
魔獣が再生する。
それだけでも前例がない。
まして、自らの形態を変化させるなどという報告は、もはや既存の迷宮魔獣学の枠に収まりようがなかった。
調査員は僅かに口元を引き結び、言葉を補った。
「もっとも、生徒たちがその時点で極度の戦闘疲労と精神的圧迫の中にあったと推定されます。証言内容のすべてを、そのまま事実として断定することには慎重であるべきだと考えます」
正論だった。
しかし、それを差し引いてもなお、共通証言が示す内容は異常に過ぎる。
調査員はそこで一区切りつけるように、手元の紙束を整えた。
「以上を踏まえまして、当該未確認魔獣がなぜ第二等級迷宮である白の地下聖堂に出現したのか、その明確な原因については不明なままです。詳細については、当調査にご協力頂いているヴァイスマン博士より、説明させていただきます」
「では、ここからは私が説明いたしましょう」
澄んでいながら、同時に無機質な声が響いた。
視線が一斉に向かう。
ヴィクターラス・エルド・ヴァイスマン博士だった。
彼はゆっくりと席を立ち、魔素幻灯機の隣に立つ。
調査員は一礼し、すぐに中央の席を譲る。
「明確な原因は、たしかに現時点で断定できません」
その声音は丁寧だったが、会議の流れを自然に自分の側へ引き寄せるだけの力があった。
彼はそう前置きしながら、一枚の幻燈板を抜き取り、別の板へと差し替える。
白壁に映し出されたのは、今度は数本の簡潔な折れ線グラフだった。
横軸には階層番号。
縦軸には魔素濃度。
単純な図式であるにもかかわらず、そこに示された内容は、先ほどのクレーター写真に劣らぬほど不穏だった。
特に目を引くのは最深部――第十層の数値である。
他階層と比べても明らかに低い。
いや、低いどころではない。
迷宮の主が存在していたとされる階層の魔素濃度としては、あまりにも不自然なほどに減衰していた。
ヴィクターラスは指示棒を取り、グラフの終端を軽く示した。
「ご覧の通り、白の地下聖堂は全体としても他の迷宮に比べて明らかに内部魔素濃度が低い状態です。中でも第十層の値は顕著と言えるでしょう。迷宮の主が佇む場所にしてはやや――いえ、明らかに低すぎる」
その視線は、会議室上座に座る老人へと向けられた。
「他の迷宮では起きなかった本件が、なぜこの迷宮で起きたのか。因果関係はなお不確かですが、私はこの魔素の異常こそがその手がかりだと考えています」
ハウゼン・ウィドバーグ。
グロリス学院の学園長にして、白の地下聖堂の管理責任者である、彼に。
「さて」
ヴィクターラスはハウゼンを静かに見据える。
「――この迷宮の責任者でもある学院長として、何か心当たりはございませんか」
会議室の空気が、わずかに張り詰めた。
ハウゼンはすぐには答えなかった。
顎髭へ静かに指を這わせ、一度だけグラフへ視線を落とす。
それからヴィクターラスを見た。
まるで、問いそのものではなく、その奥にある意図を測るような目だった。
数秒の沈黙。
調査員たちも、教員たちも、そのわずかな間を無言で見守っていた。
やがてハウゼンは、いつも通りの穏やかな声音で口を開いた。
「残念ながら、今の時点で明確な心当たりはありませぬな」
温和な返答だった。
「一つ、お聞きしたいのですが」
次の瞬間、ハウゼンは穏やかな表情で聞き返す。
「聞けば、博士ご自身が迷宮内への観測装置設置を依頼なさったとか。設置からさほど時間を置かずして、この異変が起きたようにも見える。その点については、何かご存じですかな。――無関係とは、考えにくいと思いましてな」
もしヴィクターラスがこの場で学院側の責任を問うつもりなら、今度は彼自身もまた無関係ではいられない立場にあった。
ヴィクターラスは一瞬だけ指示棒を下ろし、穏やかな笑みを崩さないまま小さく頷いた。
「ええ。それはごもっとも。当然の疑問です」
声音に揺らぎはない。
「意図したものではありませんが、私の観測装置が迷宮内の魔素を引き寄せ、装置内部へ蓄積するような挙動を示していた痕跡は確認されています。これが、魔素不足にあった迷宮へ何らかの影響を与えた可能性は否定できません」
一部を認める。
しかし、彼はそこで責任を引き受けきることはしなかった。
「ですが」
指示棒の先が、再び第十層のグラフを示す。
「――問題の本質はそこではありません。装置が設置される以前から、この迷宮の根源魔素はすでに大きく減少していた。以上から見ても、装置は引き金の一つになり得たとしても、根本原因そのものではないでしょう」
「……なるほど」
ハウゼンはわずかに目を細めた。
納得したようにも、そうでないようにも見える曖昧な相槌だった。
ヴィクターラスは続ける。
「そしてもし、私の推定通りこの魔素減少と『黒き霧の魔獣』の出現に因果関係があるならば――同様の条件を満たす他迷宮でも、いずれ類似事例が発生する可能性があります」
その言葉は、会議室全体の空気を重くした。
ヴィクターラスは静かに自分の席へと戻る。
以後の議題は自然と再発防止策と対応方針へ移っていった。
白の地下聖堂への生徒立ち入り禁止措置の継続。
他迷宮に対する緊急点検の必要性。
観測装置の運用停止と再設計の是非。
調査団と学院側の情報共有体制の強化。
現場を知る教員たちの意見と、王国側の安全保障上の懸念が交錯し、会議はなおもしばらく続いた。
やがて報告と討議の大半が終わる頃には、中央の魔素幻灯機も役目を終え、白壁を照らしていた像はすでに消えていた。
残るのは紙の擦れる音と、椅子を引く音ばかりである。
会議終了が告げられると、教員たちも調査団の面々も、それぞれに資料をまとめながら部屋を後にしていった。
最後に会議室を後にしたのは、ハウゼンとヴィクターラスの二人。
二人は会議室を出る際に、互いに軽く会釈する。
礼節に欠けるところは一つもない。
静かで穏当な所作だった。
だが、その一瞬だけ。
交わった視線の奥で、柔らかな表情とはまったく別の光が走った。
会議の場では、互いに一線を越えなかった。
だからこそ、その一瞬の視線にだけ、妙に鋭い光が宿っていた。
次の瞬間には、もうどちらの目も穏やかな色に戻っていた。
会議室には、もう誰もいなかった。
白壁だけが、静かにそこにあった。
先ほどまで異変の記録を映していたとは思えないほど、穏やかに。
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