序章(第二部)(1)
目を開いた。
白い天井が、ぼんやりと視界に映る。
鼻の奥に残る、妙な匂い。
薬草とも違う。
金属とも違う。
鼻の奥がつんとする、清潔すぎる匂いだった。
……まだ、治療棟か。
頭は少し重いが、前に目を覚ました時ほどではない。
どうやら、あのあとまた眠っていたらしい。
視線を横へ向ける。
病床の脇に置かれた椅子。
そこに、ニナが座っていた。
膝の上には小さな籠。
見舞い用なのだろうか。
色鮮やかな果物がいくつか入っている。
ニナはそのうちの一つを手に取り、小さなナイフで皮を剥いていた。
その向こうには――
イチ。
ラミアール。
ソニア。
全員が、揃っていた。
四人とも、それぞれ好き勝手に過ごしていたはずなのに。
俺が目を覚ましたことに気づいた瞬間――空気が一気に動いた。
「……起きた?」
俺が視線を動かしたのに気付いたのか、ニナが顔を上げた。
「アベル君、大丈夫?」
その声に、他の三人も一斉にこちらを見る。
「おお、やっと起きたか!」
「随分といいご身分ではないか、我がライバルよ」
「別に心配なんてしてないけど……まあ、起きたなら良かったんじゃない?」
一瞬で騒がしくなる部屋。
全員が、そこにいた。
誰一人、欠けることなく。
胸の奥から、何かが込み上げる。
やっぱり、皆無事だったんだな。
そう思った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
信じきれていなかったのかもしれない。
本当に、誰一人欠けていないのだと分かった途端、ふっと身体の力が抜けた。
左目の視界は、まだ薄く霞んだままだ。
身体の奥から活力そのものが抜け落ちているような感覚が消えない。
ただ力が入らない、というのとも違う。
手足は動く。だが、身体の芯だけが妙に空っぽだった。
身体の中にあるはずの何かが、少しだけ減ってしまったような、そんな奇妙な空虚さだった。
俺が黙り込んだのを見て、ニナがすぐに顔を覗き込んでくる。
「アベル君? まだつらい?」
「……いや」
そう答えかけて、少し迷った。
無理に隠す必要もないか。
「左目が、少し見えにくい。それと……なんというか、身体に力が入らないというか……妙に活力がない」
その言葉に、ニナは「ああ」と納得したように小さく頷いた。
「ベアトリーチェ先生もそんなこと言ってたよ。二週間も眠ってたんだから、そのせいかもしれないって」
「……二週間?」
思わず聞き返す。
「うん。ちょうど二週間」
ニナは少しだけ心配そうに、けれど安心させるような声で答えた。
「だから、今は無理に動かない方がいいって。まだ体がびっくりしてるだけかもしれないし」
二週間。
その数字の重みが、少し遅れて胸に落ちる。
そんなに長く意識を失っていたのか。
「おう。アベルが二週間も寝てる間、こっちはこっちで大変だったんだぜ!」
イチが待ってましたとばかりに口を挟んだ。
「大変、ねえ」
ソニアが冷めた目を向ける。どの口が言うのか、という顔だった。
「主にあんた一人が勝手に大変だっただけじゃないの?」
「違う! 俺たちは重大な戦いを終えた直後だったんだぞ!? なのに休む間もなく、すぐ別の冥界が始まったんだ!」
冥界と来たか。それはまた大袈裟な表現だな。
「俺はな……あの戦いのあと、もう二度と立ち上がれないかと思った」
ラミアールも心底呆れた顔でイチを見た。
「……君は本当に大袈裟だな」
当のイチは元気そうで、言うほどでもなさそうな気はしたが、一応たずねてみる。
「何の話だ?」
イチはよくぞ聞いてくれた!と前置きをしてこの世の終わりみたいな顔をした。
「期末試験だよ……」
ああ、そういえばそんなものがあったな、と思い出す。
一定期間の授業内容をまとめて確認するための試験。
ようやくその意味を理解したばかりの単語だ。
「しかも、もう終わったわよ」
ソニアが淡々と追撃した。
「……そうか」
「そうか、じゃねえよ! 俺なんかそのせいで人生終わりかけたんだぞ!」
「でもイチくん、元気そうだよ?」
「精神的にだよ!」
イチが半ば叫ぶように言う。
そこでラミアールが、やれやれと言いたげに咳払いした。
「念のため付け加えておくが、イチ・ベルガだけが一人で落第点を叩き出した。全一年生で唯一に、な」
「ぐっ……!」
「ほう。イチだけ?」
分かっていたはずなのに、思わず聞き返してしまった。
「そうよ。この馬鹿だけ」
ソニアが即答する。
「一人って言うな! なんで俺だけなんだよ! みんな同じ授業受けてたのに!」
「寝てたからでしょう?」
「寝てねえ! 半分くらいは起きてた!」
「それを世間では寝てたって言うのよ」
呆れた空気が病室に広がる。
ラミアールがもっともらしく顎を引いた。
「その結果、放課後補習の代わりに大量の課題を課されることになったわけだな」
「大量どころじゃねえぞ!? 俺だけ三倍だぞ、三倍! 夏の間ずっと字だらけの紙と格闘しろって、先生たち本気で言ってんのか!?」
「補習がなくなっただけでも感謝すべきでしょう」
ソニアの言葉で、ふと以前聞いた話を思い出した。
たしか、落第した場合は迷宮への立ち入り禁止に加え、長期休暇中の補習授業がある、と。
「……そういえば、落第したら補習があるんじゃなかったのか」
そう口にすると、四人が一斉にこちらを見た。
「あるよ?」
ニナが素直に頷く。
「本来なら、な」
言葉を継いだのはラミアールだった。
「だが今は事情が違う。白の地下聖堂は無期限の生徒立入禁止となり、教師陣はその異変の後処理や原因調査、再発防止策の検討に追われている」
静かに、だがよく通る声だった。
「補習を行う余裕など到底ない。ゆえにイチ・ベルガは、補習授業の代わりに大量の課題を課されただけで済んだ、というわけだ」
「済んだ、って言い方やめてくれよ……」
イチは本気でげんなりしていた。
「俺の分だけ明らかに厚さが違うんだぞ。あれ絶対、先生たちストレス発散も兼ねてるだろ……」
「それは単に日頃の行いの問題でしょうね」
ソニアの一言で、またしても一刀両断だった。
病室の空気が、くすりと緩む。
そのやり取りに少しだけ安堵しかけたところで、イチがふと真面目な顔になった。
「……なあ、アベル」
「ん?」
「結局さ」
そこで一度言葉を切る。
「最後にあの得体の知れねぇ化け物をぶっ飛ばしたの、やっぱお前なんだよな?」
その瞬間、全員の視線がこちらへ向いた。
俺は少しだけ息を止めた。
最後。
その言葉に、胸の奥の記憶を探る。
ニナが倒れた光景は、鮮明に覚えていた。
仲間たちが倒れていた光景も。怒りも、焦燥も、全部。そこまでは、はっきり覚えている。
だが――その後が、ない。
いや……正確には激しい何かを感じていたというぼんやりした感覚しかない。
思い出そうとすると、左目の奥が鈍く疼いた。
「……いや」
ゆっくりと首を振る。
「俺にも、分からない」
「は?」
イチが目を瞬かせた。
「分からないって……」
「ニナが倒れたところまでは覚えてる。みんながやられてたのも、覚えてる」
言葉を選びながら続ける。
「でも、その後の記憶がない」
ソニアが眉をひそめた。
「……本当に?」
「本当だ」
自分でも情けないと思うほど、はっきりした答えだった。
あれほど強烈な出来事だったはずなのに、その肝心な部分だけがぽっかりと抜け落ちている。
胸の奥がざわつく。
するとニナが、小さく手を挙げるみたいに口を開いた。
「保護された場所、すごく壊れてたって聞いたよ。床が抉れてて、大変だったって」
「……らしいわね」
ソニアも頷く。
「でも、私たちも結局、何が起きたのか知らないのよね」
ラミアールが腕を組んで低く唸った。
「目覚めた時にはすでに救助後。誰も決定的な場面を見ていない、か」
「結局なんだったんだろうな、あれ」
イチが首を傾げる。
しばし、全員が互いの顔を見た。
答えを持っている者は、誰もいない。
やがてその沈黙を払うように、ニナがぱっと笑った。
「まあまあ! 今はさ、みんな無事だったんだし、それでいいじゃない!」
あまりにもニナらしい言い分に、イチが「それもそうだな!」とすぐ乗っかる。
ラミアールやソニアはやれやれと言いたげに肩を竦めたが、それ以上は何も言わなかった。
結局、その話題はそこまでだった。
しばらくは本当にどうでもいい雑談が続いた。
課題の量がどうだとか、治療棟の食事は味が薄いだとか、ラミアールはいつも無駄に偉そうだとか、ソニアはまたそういう言い方をするだとか。
それでイチがラミアールとソニアに睨まれたり、それをニナが仲裁したり、いつもの騒がしい一場面。
それが、どこか心地いいと感じている自分がいた。
そんなやり取りの中で、ふとニナが思い出したように言った。
「そういえばさ、みんな夏休みどうするの?」
夏休み。
また聞き慣れない単語が出てきて、俺は小さく首を傾げた。
その反応に誰も気づかないまま、話が進んでいく。
「俺は勿論帰省するぜ。クソ親父がうるさいし」
イチがげんなりした顔で即答した。
「そうね。私も一度家には戻る予定よ。面倒だけどね」
ソニアはそういいながらも尻尾はどこか嬉しそうな揺れていた。
「我も同じだ。長期休暇ともなれば、一度屋敷へ顔を出さねばならんからな。……合いたくない人もいるが……」
ラミアールはなぜか遠い目になった。
その反応が少しだけ気になったが、今は深く考えないことにした。
「わたしもおうち帰るよ。お母さんに手紙は出してるけど、やっぱり直接会いたいし!」
ニナは満面の笑顔。曇り一つ見当たらない、まさしく太陽のごとくだった。
皆、当たり前のように答える。
その様子を見て、ようやく理解した。
夏休み、というものが何かは正確には分からない。
だが少なくとも、皆がそれぞれの“帰る場所”へ戻る時期なのだろう。
故郷。
家。
実家。
そういったものの話だ。
そして当然のことに。
――千年後のこの時代に目覚めた俺には、もうそういった場所は存在しない。
帰るところなどないのだと、今さらながら思い知った。
千年前に置いてきたものは、もうどこにも残っていなかった。
それが、ひどく空しい。
騒がしい病室の中で、みんなの声だけが弾んでいる。
ああでもない、こうでもないと、帰ったら何を食べるとか、土産がどうとか、休みの間に何をするだとか。
その全部が、あまりにも自然で、眩しかった。
取り残された、というほど大袈裟なものではない。
けれど。
皆の中で当たり前にあるものが、自分には存在しないのだと、改めて突きつけられた気がした。
病室は相変わらず騒がしい。
なのに、その喧騒の真ん中で、自分だけが少し遠い場所にいるような感覚があった。
皆の話を聞き、時には交ぜながら、怒ったり、呆れたり、笑ったり。
楽しい時間だったことは、間違いない。
それでも――
――胸の奥に、小さな空洞のようなものが残っていた。
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