第五章:歪みが零した異形(11)
黒い繭が、静かに脈打っていた。
次の瞬間。
それは内側から裂けた。
黒い殻が音を立てて崩れ落ちる。
そこから現れた存在を見た瞬間――
その場にいた全員の背筋に、氷のような感覚が走った。
それは魔獣ではなかった。
黒霧の怪物でもない。
人の形をしている。
しかし、人ではない。
二本の角。
歪に重なり合った黒い鎧。
背には役に立たぬほど歪んだ二対の翼。
そして手には、複数の刃が無理やり融合したかのような巨大な剣。
それはまるで――
神話に語られる冥界の門を守る騎士のようだった。
あるいは、言葉にすること自体が女神への冒涜になるとされている、深淵。
|深き淵から這い出た冒涜の騎士、そのものだった。
その姿を見た瞬間。
誰もが理解してしまった。
本能が。
魂が。
告げていた。
――あれは、人類の天敵だ。
アネタの身体が震える。
視線を向けることすら出来ない。
あれに見られた瞬間、自分は終わる。
そんな確信だけがあった。
圧倒的捕食者を前にした獲物のように、身体が勝手に震えていた。
その存在が一歩踏み出した瞬間。
迷宮の空気が重く沈んだ。
床に散っていた砂が、音もなく震える。
呼吸が、妙に重い。
胸の奥を何かに押さえつけられているようだった。
『息が……苦しい……!』
そんなアネタたちには目もくれず。
その存在は、ゆっくりと歩き出す。
この先にいるのは。
――倒れているアベルマスだった。
しかし。
アベルマスはまだ動かない。
「……っ!」
イチが歯を食いしばる。
震える体をむりやり奮い立たせ、立ち上がった。
その姿に、アネタは見開く。
「ダメ!」
アネタは叫びながらその手を掴んだ。
「行ったら死んじゃう!」
イチの足が止まる。
だが、ほんの一瞬だった。
その時、アネタは気づいた。
彼も、また震えていたのだと。
イチはアネタの震える手を握り返した。
「……そうかもしれないっすね」
恐怖で顔を真っ青にしながらも。
「でも」
イチは、笑った。
「ここで動かなかったら、一生後悔すると思うんすよ」
そう言い残し。
イチはアネタの手を振り払い、怪物へ駆け出した。
怖かった。
足が震えていた。
それでも。
ここで退けば、きっと一生後悔する。
その姿に、他の仲間も動く。
ニナが魔素銃を構える。
ソニアは背後へ回り込み、剣を振り上げる。
ラミアールは炎球を放ち、そのまま突きを繰り出す。
四方向からの同時攻撃。
深淵の騎士は、襲い来る攻撃を前にして、一瞬だけ立ち止まった。
そして、剣を持っていない方の手をゆっくりと持ち上げる。
ゆっくり――
そう見えた。
だが実際には違った。
その動きは、襲いかかる攻撃よりも速かった。
まるで。
この騎士だけが、別の時間の流れにいるかのように。
掌の上で、空間が歪む。
黒い球体が生まれる。
騎士はそれを握り潰した。
深淵魔法――
冥剣乱葬。
次の瞬間。
時間が戻る。
そして同時に。
地面が裂けた。
無数の黒い刃が、騎士の周囲から一斉に噴き出す。
攻撃は届かない。
剣が折れる。
武器が弾かれる。
刃が身体を貫く。
全員が弾き飛ばされた。
アネタは何が起きたのか理解出来なかった。
ただ、こちらへ飛んできたイチを見て――
とっさに身体を差し出した。
衝撃。
二人の身体が壁へ叩きつけられる。
静寂。
イチ。
ラミアール。
ソニア。
そしてアネタ。
全員が倒れたまま動かない。
ただ一人。
攻撃範囲の際にいたニナだけが、かろうじて身体を起こした。
無事とは言えない。ただ、かろうじて直撃を免れただけだった。
それでも、手は下がらなかった。
震えていても、狙いだけは逸れなかった。
引き金を引く。
カチ――
カチ――
乾いた音だけが響いた。
魔素銃の魔素核が、尽きていた。
ニナは更に泣きそうな顔になりながら、それでも前に立った。
それでも退かなかった。
両腕を広げる。
深淵の騎士は気にも留めない。
巨大な剣をゆっくりと持ち上げた。
ニナごと。
アベルマスを斬るために。
そして。
――剣が振り下ろされた。
・ ・ ・
それは千年前の記憶。
仲間たちと共に、魔王城へ乗り込んだ時の記憶。
「勇者、後は任せた。 ――先に逝く」
そう言って。
次の瞬間。
俺の視界が、赤く染まった。
魔王の魔法が、聖騎士の胸を貫いていた。
血が、俺の頬に飛んだ。
――聖騎士のくせ、酒癖が酷かった、それでも仲間思いで義理堅い、内心兄のように思っていた聖騎士。
「ははは……この老いぼれの命など、勇者殿のためなら安いものですじゃ」
限界を超えた魔法を放ち、魔王の恐ろしい魔法に隙を作るため。
老魔法使いの杖が、砕ける音がした。
それでも。
老人は笑っていた。
次の瞬間。
魔王の反撃が、彼を呑み込んだ。
残ったのは、焼け焦げたローブだけだった。
――仲間の最年長者で、みんなの相談事をよく聞いてくれた、老魔法使い。
「大丈夫です。あなたは、決して死なせません。――たとえ、この命と引き換えてでも」
瀕死だった俺を救うため。
自らの命を捧げた神聖魔法を使った聖女。
聖女の身体が光に包まれる。
その光が、俺の身体へ流れ込んだ。
俺の傷が消えていく。
代わりに。
彼女の光が、静かに消えていった。
――他人への思いやりがたまには度が過ぎると感じるくらい献身的で、そのくせ芯が強く、どんな絶望の中でも、最後まで俺たちを信じ続けてくれた聖女。
「アベルさん……最後まで……どうか……自分を諦めないでください……」
少女の手が、俺の袖を掴んでいた。
震えながらも、必死にしがみつくように。
「勇者様ではなくなっても……アベルさんは、アベルさんですから……」
そんな彼女の手が、ゆっくりと力を失っていく。
――勇者なんて呼ばれる前から、俺を信じてついてきてくれた、最初で、誰よりも長く旅を続けた世話焼きの少女。
その全ての犠牲で。
俺は生き残った。
俺一人だけが。
仲間の誰もが、その命を落とす前にこう言った。
――俺が無事でよかった、と。
魔王との戦いの結末は未だに思い出せない。
だが。
一つだけ確かなことがある。
結局、俺は。
――誰も、守れなかったんだ。
・ ・ ・
意識が浮上する。
……気絶していたのか。
どれくらい?
あいつは。
――皆は。
目を開く。
視界が揺れている。
何が起きているのか分からない。
音だけが遠くで響いている。
ゆっくりと焦点が合う。
――その瞬間。
視界に飛び込んできたのは。
空中に、誰かの身体が見えた。
誰だ。
分からない。
いや。
違う。
――ニナだ。
「ニナ!!」
ニナの腕輪が光る。
次の瞬間。
それが砕け散った。
俺は駆け寄った。
倒れたニナを抱きかかえ、彼女の名前を叫んだ。
「ニナ! ニナ!」
ゆっくりと開く瞳。
彼女は俺を見て。
彼女は安心したように笑った。
彼女は、心から安堵したように笑った。
「アベル君……無事で……よかった……」
その瞬間。
過去の仲間達の姿が重なる。
(アベルさん……無事でよかったです……)
そして。
彼女の目が閉じられ――
ニナは動かなくなった。
周囲の音が遠ざかる。
ドクン。
心臓が鳴る。
「……ニナ?」
倒れたニナを抱き起こした瞬間、腕の中の軽さに息が止まりそうになった。
視線を動かす。
倒れている仲間たち。
そして。
ゆっくり歩いてくる、敵。
「……ああ……」
思考が止まる。
理解が追いつかない。
息が出来ない。
現実感だけが、するすると遠のいていく。
その奥で。
冷たい自分が呟いた。
――また……守れなかった。
「……ふざけるな……」
胸の奥で、何かが弾けた。
周囲の音が遠ざかる。
心臓の音だけが響いていた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
「――ふざけるなぁぁぁ!!!」
左目が焼ける。
視界が赤く染まる。
痛みではない。
それ以上の何か。
俺の奥底で眠っていた何かが――目を覚ましていた。
ニナを静かに地面へ横たえる。
ゆっくりと立ち上がる。
身体の奥を、荒れ狂う奔流が駆け巡る。
熱い。
だが同時に、凍てつくほど冷たい。
二つの力が、身体の中でぶつかり合っている。
出口を求めて暴れる奔流。
俺は両腕を広げた。
掴む。
空間の奥から、無理やり引きずり出す。
黒き炎。
そして――黒き氷晶。
黒き炎が空気を焼く。
黒き氷晶が空間を凍らせる。
「ああああああああ!!!」
二つを引き寄せる。
暴れる力を押さえ込む。
ぶつける。
押し潰す。
相反する力を、無理やり一つに圧縮する。
二つの力が衝突した瞬間。
迷宮の壁が、床が、迷宮そのものが、悲鳴のように軋む。
この迷宮そのものが、苦鳴を上げているかのようだった。
そして。
俺はそれを引き抜いた。
長く。
鋭く。
まるで一振りの剣のように。
その時。
敵が動きを止めた。
巨大な剣を静かに下ろす。
そして。
ゆっくりと、片膝をついた。
頭を垂れる。
それは敗北ではない。
抵抗でもない。
それはまるで――
王へ忠誠を捧げる騎士の所作だった。
(――)
胸の奥で、何かが震えた。
怒りでもない。
悲しみでもない。
もっと別の、何か。
目の前の存在を、ただ哀れむような――
俺ではない、誰かの感情。
だが、その意味を理解する前に。
俺の中の力が限界を超えた。
世界が一瞬、静止したように感じた。
そして俺は。
――それを、振り下ろした。
――深淵・相剋滅閃。
振り下ろす。
世界が黒に呑まれた。
敵の身体が崩壊していく。
鎧が砕ける。
翼が消える。
肉体が光に呑み込まれる。
抵抗はなかった。
まるで最初から、その結末を受け入れていたかのように。
やがて。
騎士の姿は完全に消えた。
次の瞬間。
黒い光が爆発した。
轟音。
衝撃。
世界が真っ暗に染まる。
俺の意識は――そこで途切れた。
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4/26に第一部完予定しています。
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