第五章:歪みが零した異形(8)
「――その子を放せぇぇぇぇぇぇ!!!」
迷宮の空気を震わせる怒号だった。
次の瞬間。
通路の奥から一つの影が飛び込んできた。
巨大な黒霧の魔獣へ向かって、一直線に。
「うおおおおお!!!」
イチだった。
両手で握り締めた大剣を振りかぶり、そのまま全力で振り下ろす。
轟音。
銀の軌跡が閃いた。
イチの大剣が黒霧を真横から叩き斬る。
「……っ!」
衝撃で黒霧が弾けた。
触手のように絡みついていた霧が一瞬だけ散り、アネタの身体が床へと落ちる。
「今だ!」
イチは踏み込み、そのまま片腕でアネタの身体を抱え上げた。
思っていたより、ずっと軽い。
その軽さが、胸の奥に妙に引っかかった。
こんな小さな身体で、さっきまであの化け物を止めていたのか。
「おい、あんた! しっかりしろ!」
アネタの瞳が、かすかに開く。
ぼやけた視界の中に映ったのは、黒と赤のツートンカラーの髪の少年だった。
怒りに燃えるような目。
自分を抱き上げたまま、迷いなく化け物を睨みつけている。
「……え……?」
「喋るな。もう大丈夫だ」
その言葉は妙に力強かった。
だが。
黒霧の魔獣は止まっていない。
切り裂かれた霧が、すぐに再び集まり始める。
巨大な身体が、ゆっくりと形を取り戻す。
空気が重く沈んだ。
部屋の奥で、十アルト級の巨体が蠢く。
普通なら、足がすくむ。
だがイチは止まらなかった。
「イチ!」
背後から声。
振り向くまでもない。
アベルマスたちだった。
「下がれ!――雷撃よ!」
ラミアールの鋭い声と同時に、魔法が展開される。
再び、轟音。
魔法が黒霧へと撃ち込まれる。
爆発。
霧の一部が吹き飛ぶ。
「イチ、こっち!」
ソニアが叫びながら駆け込んできた。
「分かってる!」
イチはアネタを抱えたまま後退する。
だが。
黒霧の魔獣はそれを逃がすつもりはなかった。
ずるり、と。
霧の一部が床を這うように伸びる。
触手。
それがイチの背後から迫る。
「くそっ!」
避けられない。
両手はアネタを抱えている。
その瞬間。
銀の閃光。
アベルマスの剣が触手を断ち切った。
「走れ、イチ」
イチは振り返らない。
「おう!任せた!」
そのまま全力で地面を蹴る。
ソニアが前に出て黒霧の攻撃を引きつける。
ラミアールの魔法が連続で炸裂する。
アベルマスが迫る触手を次々と斬り落としていく。
後方ではニナがすでに膝をつき、受け入れる準備をしていた。
「こちらへ!」
イチはアネタをそっと地面へ下ろす。
ニナがすぐに全身を確認する。
「先輩、大丈夫です。少し失礼しますね」
指先で脈を確認し、呼吸を確かめる。
そして体の傷を素早く見ていく。
淡い治癒魔法の光が静かに広がった。
「擦り傷がいくつかあるだけです。骨も折れていません」
アネタの額にそっと手を当てる。
「魔素を使い過ぎただけですね。一時的に体が動かなくなっているだけです。少し休めば問題ありません。……イチくん、先輩は大丈夫だよ」
その言葉を聞いた瞬間。
「……はあぁ……」
イチが大きく息を吐いた。
肩の力が抜ける。
心の底から安堵したような表情だった。
「よかった……」
だが次の瞬間。
イチの表情が引き締まる。
ゆっくりと振り向く。
部屋の奥では、黒霧の魔獣が再び巨大な身体を形成しつつあった。
空気が重い。
「アベル」
低い声。
「二人を頼む」
アベルマスは何も言わず、静かに頷いた。
それを確認すると、イチは大剣を握り直す。
そして。
迷いなく地面を蹴った。
「うおおおおお!!!」
再び黒霧の魔獣へ向かって突っ込んでいく。
その背中を。
アネタは、ぼんやりと見つめていた。
まだ体に力が入らない。
頭も少しぼんやりしている。
それでも、はっきりと見えていた。
自分を助けた少年の背中が。
あの巨大な化け物へ、迷いなく突っ込んでいく姿が。
胸の奥が、どくんと鳴る。
理由はわからない。
ただ、目が離せなかった。
どうして。
どうしてあんな風に。
ためらいもなく戦えるんだろう……
アネタは、ただ黙ってその背中を見ていた。
部屋の奥で、黒霧の魔獣がゆっくりとその巨体を持ち上げる。
――戦いは、まだ終わっていなかった。
・ ・ ・
イチ、ラミアール、ソニアの三人が再び黒霧の魔獣へ突っ込んでいく。
俺はその少し後ろで、二人――ニナとまだ名を知らない先輩のそばに立っていた。
視線の先では、戦いが激化している。
「おぉぉぉりゃぁぁぁぁ!」
イチの大剣が唸りを上げる。
巨体の側面へ叩きつけられた一撃が、黒霧の身体を大きくえぐった。
続けざまにラミアールの魔法が炸裂する。
「――雷撃よ!」
閃光。
青白い雷が霧を貫き、黒い身体の一部を吹き飛ばす。
そこへ間髪入れずにソニアが踏み込んだ。
長剣と短剣。
二本の刃が交差するように振るわれる。
だが――
切り裂かれたはずの黒霧は、ゆっくりと蠢き、まるで何事もなかったかのように元の形へ戻っていく。
またしても修復していく。
それを見ながら、俺は無意識に左目へ手をやった。
ずきり、と。
鈍い痛みが走る。
さっきからずっと続いている痛みだ。
いや。
正確に言えば――
あの黒い化け物を最初に見た瞬間からだ。
あの時。
迷宮の奥で、あの黒い霧の塊を目にした瞬間。
これまで感じたことのないほど強烈な痛みが、左目を貫いた。
思わず膝をつきそうになるほどの痛みだった。
今はそこまでではない。
少しだけ収まっている。
だが。
完全に消えたわけではない。
じわじわと。
左目の奥が脈打つように痛み続けている。
迷宮やこの時代の在り方に疑問を抱くたび疼いたことはあったが、今回の反応はそのどれよりも強い。
……この左目の疼きは、一体なんだ。
何度問いかけても答えは出ない。
ただ一つ。
あの黒霧の化け物は、俺が感じている迷宮という違和感に深く関係している――そんな気がした。
こちらに迫ってくる触手のような霧を斬り伏せ、戦況を確認する。
……状況は、あまり芳しくない。
いくら攻撃しても、すぐ元通り。こちらだけが一方的に消耗していく。
イチの大剣が再び振るわれる。
重い衝撃音。
黒霧の身体が揺らぐ。
だが。
それでも倒れない。
切られた部分が消え、すぐに元通りに修復される。
「……?」
今、一瞬。
何かが引っかかった。
俺は眉をひそめる。
確かな確信ではない。
ただ、何かがおかしいという感覚。
まだ掴めない違和感。
だが、こういう小さな違和感が大事な手がかりになることを、俺は勇者だった頃に何度も経験している。
思考を巡らせる。
何がおかしい?
その間にも黒霧の化け物は絶えず蠢き、部屋のあちこちへ触手のような霧を伸ばしてくる。
その一本がこちらへ迫る。
俺は一歩踏み込み、剣を振るう。
銀の軌跡。
触手を真横から断ち切る。
斬られた黒霧は抵抗もなく二つに裂けた。
そして。
巨体と繋がっていない断片は、すぐに消えた。
床に落ちても、何の痕跡も残らない。
まるで最初から存在していなかったかのように。
その直後。
黒霧が蠢く。
切り裂かれた部分がゆっくりと埋まっていく。
今まで何度も見ていた再生の光景。
……いや。
俺はわずかに眉をひそめた。
――再生とは、少し違う。
もう一度よく観察する。
切断された霧はそのまま消える。
その隙間を埋めるように、魔獣の全身を覆う黒い霧が集まり、そこへ集束していく。
その直後、霧は身体となりて、元通りになる。
霧が集まって形を作り直している。
再生というより――修復。
その時だった。
さっき切り裂いた部分を思い出す。
消えた霧。
跡形もなく消えた部分。
黒霧に隠れてはっきりとは見えなかったが――
ほんの一瞬だけ。
青い粒子が散ったように見えた。
……青い粒子。
それは見慣れた光景だ。
以前の時代では魔族を倒した時に。
この時代では迷宮の魔獣を倒した時に。
身体が崩れ、魔素へ還元される時に現れる光。
つまり。
この黒霧の化け物もまた――
――魔獣なのか。
俺は戦いの様子をもう一度観察する。
イチの大剣が黒霧を叩き斬る。
ラミアールの魔法が霧を吹き飛ばす。
ソニアの刃が黒霧を削る。
そのたびに黒霧が体を修復する。
やはり再生ではない。
霧が集まり、形を作り直している。
では、斬られて消えた霧は、どこへ行く?
そして俺は、ふと気づいた。
黒霧の魔獣をじっと見る。
最初に見た時と比べて。
――小さくなっている。
目を細める。
最初は錯覚かと思った。
だが。
イチの背丈と比べる。
部屋の柱の高さと比べる。
間違いない。
わずかではあるが。
最初より――小さい。
頭の中で点と点が繋がる。
斬られた部分は消える。
青い粒子となって魔素へ還元される。
そのあと黒霧が集まり、身体を修復する。
つまり、この怪物は損傷するたびに――
「――魔素を消費して身体を作り直している」
思わず呟いていた。
「クッソ!いつまで再生するんだよこいつ!」
「文句を言う暇があったら身体を動かせ――と言いたいところだが、さすがにこれは我でも文句を言いたくなる」
「このままだとキリがないわね……こちらの体力も無限ではないし」
一瞬攻撃を止め、荒い息を整える三人へ向かって叫んだ。
「いや、今のままで十分だ!」
「は?アベルどういうことだよ?」
三人がこちらを見る。
俺は声を張った。
「ただ再生してるわけじゃない!全身に纏っている霧を使って修復してるんだ!」
「それがどうしたの?」
ソニアが触手を避けながら聞く。
「攻撃されるたびに霧の形をした魔素を使って身体を作り直してる。そして使った魔素の分――」
ラミアールの目が細くなる。
「……魔素が消えていく、というわけか。だが、その根拠は?」
俺は黒霧の巨体を指す。
「削り続ければ、いずれ魔素が尽きる。実際、そいつは最初より小さくなっている」
ほんの一瞬、沈黙。
そして。
イチが笑った。
「はっ。最初からそう言え!」
ソニアが剣を構え直す。
「そう。なら、遠慮はいらないわね」
ラミアールの魔法が再び展開される。
「押し切るぞ!」
三人の動きが一段鋭くなる。
戦いの空気が変わった。
相手とて魔素が無限にあるわけではない。
押し切れる。
そう確信した、その瞬間だった。
黒霧の魔獣が突然こちらへ向き直る。
ゆっくりと、その巨体が動く。
イチたちの攻撃を、まるで無視するように。
そして。
黒霧が大きくうねる。
次の瞬間。
巨大な身体がこちら――
後方にいる俺たち三人へ向かって、猛然と突進してきた。
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