第五章:歪みが零した異形(7)
巨大なそれが、ゆっくりと蠢いた。
黒い。
霧のような。
煙のような。
しかし確かに“質量”を持っている何か。
部屋の奥で、巨大な影が揺れている。
雑に見積もっても十アルトはあるだろう。
それは迷宮の魔獣とは明らかに違っていた。
魔獣特有の輪郭がない。
獣の形でもなければ、昆虫のような外骨格もない。
ただ黒い霧が、巨大な塊としてそこに存在していた。
「……なんだよ、あれ」
剣士の少年が低く呟く。
「魔獣……なのか?」
槍を構えた少年が言う。
答えはない。
だが。
次の瞬間。
黒霧の魔獣が蠢いた。
それと同時にアネタも動いた。
他の三人が状況を理解できず立ち尽くしている間に、彼女の体内で魔素が一気に巡った。
祖父から叩き込まれた習慣。
迷宮では常に魔素を巡らせておくこと。
魔法発動の準備を、常に整えておくこと。
だからこそ――反応は誰よりも早かった。
「炎よ貫け!」
詠唱と同時に、炎の槍が空気を裂いた。
轟炎が黒霧へ突き刺さる。
爆発。
熱風が部屋を揺らした。
その爆炎を見て、ようやく前衛の二人が我に返る。
「っ、構えろ!」
剣士が踏み込み、刃を振るう。
槍使いもすぐに続いた。
鋭い連携。
二人の攻撃が黒霧の魔獣を切り裂く。
手応えは、確かにあった。
刃が切り裂き、槍が貫いた。
だが。
「……は?」
切り裂いたはずの黒霧の魔獣が、何事もなかったかのように再生していく。
後衛の弓使いも慌てて矢を番える。弓矢に魔素を込めて、威力を増幅させる。
弓弦が鳴り、矢が放たれた。
矢は黒霧の魔獣の中心を貫く。
しかし。
「何なのよ!こいつ!」
さっきと同じく、すぐに元通りになった。
アネタの魔法も効いていない。
火、雷、氷、土。
アネタが扱える威力の高い魔法が次々と放たれた。
それでも、効いていない。
みんなの顔が青く染まった。
こんなもの、どうやったら倒せるのか?
その時、黒霧が、ぬるりと動いた。
霧の一部が地面を這うように広がる。
まるで生き物の触手のようだった。
それは槍のごとく、弓使いの少女に向かった。
「アンナ!避けろ!」
「……え?きゃっ!」
彼女はそれを辛うじてよけたけど、完全にはよけず、右腕を擦れた。
「痛っ!」
血が滲む右腕を抑えて、アンナと呼ばれた少女の顔が恐怖に染まる。
このパーティに回復役はいない。
剣士、槍使い、弓使いの三人パーティ。
元々はそれだけでもよかった。
この白の地下聖堂での経験も十分に積めた。実力に自信もあった。
これまでそれで十分戦えていた。
だが、自分たちの攻撃が全く通じない敵なんて初めて。
それに比べて、こっちは怪我を負っても治せない。致命傷でも負ったら治せない以上、それはそのまま死に直結する。
そうでなくても、傷を治せない以上出血も早く止められない。
それは、彼らが初めて味わう――死への恐怖。
「い、いやぁぁぁぁ!!!」
それを理解した瞬間、アンナはすぐさま逃げ出した。
「お、おい!クッソ!俺らも逃げるぞ!先生達を呼んできた方がいい!」
剣士の少年が叫びながら通路に飛び込んだ。その後ろを槍使いの少年とアネタも慌てて後を追う。
通路はそれほど長くない。
その先にはもう一つ部屋があった。
そこを抜ければさらに奥の通路へ出られる。
あの巨体では、流石にここまでは追ってこれないはず。
逃げ切れる!
――そう思った。
だが。
「くそっ……追いかけて来やがった! 何なんだよ! あれは!」
後ろを振り向いた槍使いが叫ぶ。
黒霧の魔獣は巨体のまま追ってくるのではなかった。
体の一部が流れ出し、通路へと広がってくる。
巨体の大半は部屋に残っているのに。
それでもこちらへと迫ってくる。
いや、見た目どおり、霧のように巨体ごと通路を通ろうとしていた。
しかも、早い。
「このままじゃ追いつかれる!」
通路を抜け広い空間に出たけど、黒霧の魔獣はまだ追いかけていた。
この速度なら次の通路を抜ける前に追いつかれるはずだ。
その瞬間。
アネタは足を止めていた。
「……私が」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「足止めをする」
三人が振り向く。
アネタは通路の入口で杖を構えた。
「ここを、塞ぐ」
魔素を強引に引き出す。
既に威力の強い魔法を幾度も使っている。体内の魔素も限界が近い。
けど、どうせこのままならやられるだけ!
アネタは更に魔素を絞り出した。限界は、とっくに超えている。
一瞬、凄まじいめまいが襲ってきたけど、それでも魔法のイメージを固く保つ。
魔法とはイメージの具現化。
『私の、唯一な長所。だから……失敗しない!』
体内の魔素が一気に流れ出す。
「氷壁よ守れ!」
轟音が通路を震わせた。
巨大な氷壁が通路を完全に塞ぐ。
分厚い氷の壁。
人の背丈をはるかに超える氷塊。
「こ、これなら……」
三人の表情に希望の光が差し込んだ。
「はあ……はあ……」
魔素を限界以上に使った代償だろう。
アネタはもう立っていることもできず、その場に崩れ落ちた。
でも、これで……
魔素を使い切った反動で、全身がひどく消耗していた。今でも息をすることも大変なくらい消耗は激しい。
それでもやり遂げた、という満足感があった。
「お、おい!アネタ!」
剣士の少年が慌ててアネタのところに向かおうとした、その瞬間。
じわり、と。
氷の壁から黒い霧が滲み出る。
氷壁は崩れていない。
だが。
その隙間とも言えないほどの細い亀裂から。
黒い霧が――滲み出していた。
「……嘘、だろ……」
霧が集まるごとにどんどん大きくなり始める。
その姿に、三人の表情が更なる絶望に染まった。
「もういや!!!!」
「う、うわあぁぁぁ!!」
アンナが先に逃げ出し、残りの二人も悲鳴を上げて逃げ出す。
――その場に、魔素が枯渇したアネタだけを残して。
「ま、待って……! お願い! 待って!」
必死に叫ぶアネタの姿を、一瞬振り返った。
だけど、それだけ。
三人は通路を走っていた。
――足音が遠ざかる。
アネタの後ろには氷の壁に黒い染みが広がり始める。
『に、逃げなきゃ……』
そう思っても、既に魔素が切れた体はいうことを聞かなかった。
それでも、地を這って少しでも遠くに行こうとした。
やがて、氷の壁を完全に抜けた黒い霧はまた巨体の姿をとる。
「あ、ああ……」
もはや、アネタは恐怖に身を震わすこと以外、何もできなかった。
黒霧の魔獣が、ゆっくりと広がった。
触手のように伸びる霧が、アネタの身体に絡みつく。
「きゃ……!」
ズルズルと、引き寄せられる。
黒霧が全身を這い、包み込もうとする。
足。
腕。
肩。
ゆっくりと飲み込まれていく。
冷たい。
重い。
まるで深い泥に沈んでいくようだった。
『……ああ』
理解した。
私は、ここで死ぬんだ。
涙が零れる。
学院に入ってから。
ずっと一人だった。
友達もいない。
パーティでも浮いている。
そして。
――最後は、置いていかれた。
『やっぱり……私なんて……』
ずっと我慢していた、涙。
辛くても、泣くことだけは我慢してきた。
でも、それも何の意味もなかった。
アネタ・マガリスという少女の人生は、ここで終わる。
何も成さずに。
誰からも必要とされずに。
誰にも、見届けてもらえずに。
ただ、一人で。
胸の奥から声が出た。
『……こんなのあんまりだよ……』
まだ。
まだ。
死にたくない。
友達も作ってみたかった。
もっと、みんなと仲良くなれたかった。
――そして、恋もしてみたかった。
黒霧が顔のすぐそばまで迫ってきた。
視界が黒く染まる。
「死にたく……ないよ……」
ああ、女神様。
根暗で、バカで、いいところなんて何一つない私ですけど。
図々しくてもいい。
それでも――お願いします。
まだ……生きたい。
黒霧が、アネタの顔のすぐ目の前まで迫る。
――その瞬間だった。
「――その子を放せぇぇぇぇぇぇ!!!」
誰かの声が、確かに聞こえた。
・ ・ ・
「うわあぁぁぁぁぁぁぁ!!」
悲鳴が迷宮に響いた。
「……!」
俺たちは一斉に通路を見た。
次の瞬間。
奥の通路から、三人の生徒が飛び出してきた。
見覚えのある上級生のパーティだった。
それにしても、かなり様子がおかしい。
顔は真っ青。
息は荒い。
明らかに、普通ではなかった。
「た、助けてくれ!」
「な、なんなんだよあれ!!」
「攻撃が効かない!!」
口々に叫ぶ。
「お、落ち着いてください!あ、怪我してる!ちょっと待ってください!」
ニナが慌てて右腕を怪我している女子生徒を手当てし始めた。
「魔獣だ……!」
「変なんだ……!」
「黒い霧みたいな……!」
言葉が支離滅裂だった。
その間でも、先輩の三人は何かを叫んでいる。
こういう状態の人間は幾度も見てきた。
――恐怖による、パニック状態。
「ちょっと、落ち着いてください!」
ソニアがなだめようとするが、全然聞かない。
彼らはまともに答えられる状態ではなかった。
困っていると、同じく困惑の顔をしていたイチが周囲を見渡す。
そして、みるみるうちに顔がこわばっていく。
「……おい、ちょっと待て」
普段の明るい彼のものだとは思えないくらい低く、冷たい声。
彼は三人の顔を順に見たあと、眉をひそめる。
「あんたら……たしか四人パーティだったよな」
その言葉に、狂乱していた三人の動きが止まった。
沈黙。
心の中に、重い石が置かれたような嫌な感覚になった。
彼らは見覚えがある。
今日、迷宮の入口で顔を合わせた。
複数のパーティが同時に迷宮へ入る場合、基本的には上級生のパーティから先に入るのが通例だ。
あの時も、三年生のパーティが先に入り、そのあとに二年生の彼らが続いたはずだ。
その時、確かに――四人いたはずだ。
今ここにいるのは、三人だけだ。
――一人は、どこに行った?
三人の視線が揺れる。
「あ、その……」
一人が口を開きかける。
だが言葉は続かない。
「おい」
イチの声がさらに低くなった。
「まさか……」
三人は互いに顔を見合わせ、そして視線を逸らした。
結局、誰も何も言わない。
だけど、それだけでも十分だった。
「――あんたら」
イチの顔が怒りに歪む。
「仲間を見捨てたのか」
三人は何も言えない。
ただ口を開きかけては閉じるだけだった。
「あ……いや……」
だが結局、弁明の言葉は出てこない。
再び沈黙。
それを見た瞬間。
「……そうか」
イチの怒りが爆発した。
「――ふざけんな!!!」
怒声が迷宮に響く。
次の瞬間。
イチは迷いなく走り出していた。
三人が逃げてきた通路へ。
「イチ!」
俺たちも慌ててその後を追った。
去り際に一瞬後ろを振り向く。
彼らは恐怖と罪悪感が入り混じった、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
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4/26に第一部完予定しています。
よって、1部完結までは金・土・日で更新する予定です。




