第五章:歪みが零した異形(4)
蒼月第四巡、二十三日の金曜日。
今週は、特に迷宮へ潜る予定はなかった。
そのため、明日と明後日――つまり土曜日と日曜日は、軽い鍛錬でもしながら本を読んだりして、久しぶりにゆっくり過ごそうと考えていたのだが。
「期末試験?」
会話の途中で聞こえてきた聞き慣れない単語に、思わず首をかしげる。
何だそれは。
だが、周囲の反応を見る限り、どうやら自分の反応のほうが奇妙だったらしい。
「あ、アベル君は編入だから、試験がいつかまだ知らないんだよね」
ニナが納得したように言う。
「試験は蒼月第五巡の十日からだ。 ……あと十七日ほどか」
ラミアールが指折り数えながら淡々と言った。
「うげっ。 マジかよ。 授業の内容、全然覚えてないんだけど」
机に突っ伏しながら呻くのはイチだ。
「それはあなたが授業中にいつも寝ているからでしょう? 少しは真面目に勉強したらどうなの」
呆れたようにソニアが言う。
ふと気付くと、なぜか自分の席の周りに四人が集まっていた。
ニナは隣の席、イチは前の席だからまあ、まだ分かる。
だがラミアールとソニアは、わざわざこちらの席の近くまで来ている。
最初の頃は少し気になったものだが、最近ではもう自然な光景として受け入れている自分がいた。
それよりも、だ。
「期末試験って、何だ?」
自分としては、知らない言葉の意味を尋ねただけの、ごく当然の行動だった。
しかし、四人の表情は一斉に固まった。
まるで、何か信じられないものでも見たかのような顔だ。
「あんた……それ、冗談……じゃなさそうね」
ソニアが眉をひそめる。
「アベル君って、たまに本当に常識的なこと聞くよね……」
ニナが困ったように笑う。
「しっかりしたまえ、アベルマス。 ライバルである貴様がその体たらくでは、この我が笑われるではないか」
ラミアールが腕を組んで言う。
「アベル……さすがに期末試験くらいは俺でも知ってるぜ?」
イチまで呆れ顔だった。
……そこまで大きな反応をされるようなことだったのか?
どうにも納得がいかない。
だが四人の様子を見る限り、どうやら“期末試験”というのは、この時代では誰もが知っている常識らしい。
この時代で目を覚ましてから、まだ二ヶ月も経っていない。
少しくらい大目に見て欲しいものだ。
……もっとも、その事情を知っているのはハウゼンさんとベアトリーチェさんくらいのもの。
説明できるはずもない。
すると、突然ニナがぱん、と手を打った。
「そうだ! 期末試験まで少し余裕あるし、勉強会しない?」
「えぇ? 嫌だよ。 そんなのやるくらいなら迷宮に行くほうが百倍いい」
イチが即座に顔をしかめる。
だが、ソニアが冷静に言った。
「赤点だったら、迷宮探索は禁止されるって知ってて言ってるのよね?」
「……え? 嘘だろ!?」
イチが勢いよく顔を上げた。
「な、なんだよそれ! そんな話聞いてないぞ!」
その反応を見て、ソニアは露骨にため息をついた。
「それに赤点だと、学期が終わっても補習授業よ。 少なくとも補習が終わるまでは帰省も無理」
「なっ……」
イチの顔が、見る見るうちに絶望に染まっていく。
「どうしよう……帰省が遅れたら、うちのクソ親父に殺されるかもしれないんだけど……!」
机に両手をついてこちらを見る。
「どうすればいい!? なあ、アベル!」
そんなことを言われても。
少なくとも、この状況で一番役に立たないのは間違いなく俺だろう。
「いや、知らん」
正直な感想だった。
結局、そんなこんなで話はまとまり――
週末は、勉強会なるものを開くことになった。
そして俺は、ふと思う。
……結局のところ。
期末試験とは、いったい何なのだろうか。
・ ・ ・
土曜日の午後。
寮のラウンジは、週末ということもあってそれなりに賑わっていた。 長机がいくつも並び、思い思いに本を広げる者、談笑する者、軽食をつまむ者。
昨日ようやく理解したのだが、期末試験というのは、一定期間の授業内容をまとめて確認するための試験のようなものらしい。
そして今は、その試験が近づいている時期なのだという。
なるほど。
そういうことなら、この光景にも説明がつく。
ノートを広げて顔を突き合わせている学生や、難しい顔で教本を読み込んでいる学生。
どうやら俺たちと同じように、期末試験の準備をしている学生も少なくないらしい。
その一角で、俺たちも机を囲んでいた。
「うーむ……」
目の前に広げられているのは、魔素理論の教本だ。
ページには複雑な式や図式が並び、魔素の循環や構造について説明が書かれている。
正直に言おう。
――さっぱり分からん。
俺は魔素そのものの扱いなら、別に苦手ではない。
体内の魔素を巡らせて身体能力を底上げすることも、武器へ魔素を纏わせて斬撃を強化することも、感覚的には昔から当たり前のようにやってきた。
だが、それはあくまで“感覚”だ。
この教本に書かれている魔素循環式だの構造式だのは、魔素の流れを数式や図式で整理した理論体系らしい。
千年前には、少なくとも俺の知る限り、こんなものは存在しなかった。
つまり――
生まれて初めて見る種類の知識というわけだ。
剣の型や身体操作なら、どれほど複雑でも理解できる。
だが、この魔素式というやつは、どうにも頭に入ってこない。
その時、ラウンジの奥――小さな共用キッチンの方から、甘い香りが漂ってきた。
ほどなくして、ニナがトレイを抱えて戻ってくる。
「みんな、お待たせ!」
皿の上には、焼きたてらしい小さなクッキーが並んでいた。
「勉強するなら、甘いものあったほうがいいでしょ?」
そう言って机の中央に皿を置く。
「おおっ! ナイスだ、ニナ!」
イチが即座に一枚つまみ上げた。
「うまっ!」
「まだいっぱいあるからね」
ニナは笑って隣の席に座る。
そして、俺の教本を覗き込み――
「アベル君、大丈夫?」
「いや、どう考えても大丈夫ではないな」
「うーん。 アベル君って、使うのは上手いのに、どうして式になるとこんなに苦手なのかな?」
ニナが不思議そうに首をかしげる。
「……実戦だけでどうにかしてきたタイプなんでしょうね」
ソニアが教本をちらりと覗き込みながら肩をすくめた。
「まあ、アンタはそういうの得意そうだもの。 理屈より先に体が動くっていうか」
言い方は淡々としているが、どこか微妙に棘がある。
「勘だけで戦えるのはある意味すごいけど、少なくともこの手の理論は別よ。 ここは普通に勉強しないと無理」
「ふん」
ラミアールが腕を組んで鼻を鳴らした。
「当然だ。 魔素理論は体系的に理解してこそ意味がある。 感覚だけで扱うなど、いわば原始的な運用に過ぎん」
チラリと、こちらを見る。
「なに、案ずることはない。 単にこの分野に関しては、この我のほうが貴様より一枚上手だっただけのことだ」
「……こんな状態のアベルマスに勝って、あなたそれで本当に満足なの?」
ソニアが呆れたように言う。
「まあ、わかるぜ。俺もアベルと似たようなもんだし」
イチがクッキーをかじりながら口を挟んだ。
イチと似たようなもの、か。なんだか嫌だな、それは。
「というか、アベルってさ、戦ってる時は意味分からんくらい強いのに、こういうのになると急に面白い顔になるんだよな」
「面白い顔とはなんだ」
思わず言い返す。
「いや、だってよ。 さっきから同じところばっか睨みながら、一向に進めてないだろ? そのくせ表情はいろいろ変わるし。 ページ最初と同じところ見てるぞ」
「……うーむ」
図星だった。
だが、それをイチに言われると妙に腹が立つから不思議なものだ。
ページをめくり、もう一度式を見直す。
……うむ。やはり分からん。
その時だった。
少し離れた席から、ふと会話が耳に入った。
「なあ、聞いたか? 魔素核泥棒の話」
「魔素核を盗んだ変な奴がいるってあれだろ?」
「そうそう、それ」
俺は自然とそちらに視線を向ける。
二年生らしい学生が三人、机を囲んで話していた。
「倒した魔獣の魔素核を回収しようとした瞬間、何かが横から持っていったって言うんだよ。 普通あり得なくないか?」
「まあ、それは思うな。 そもそもその“何か”って何だよって話だ」
「聞いた話だと、黒い霧みたいなものだったとか」
「新種の魔獣か?」
「さあな」
そこまで聞いたところで、ソニアの声が飛んできた。
「アベルマス。 手が止まってるわよ」
「……ああ」
視線を教本に戻す。
――黒い霧、か。
一瞬だけ、妙な引っかかりを覚えたが。
……いや、今はこちらに集中しよう。
「ほらイチ、ここ」
ニナがノートを指差している。
「この式。 この前、授業で先生が言ってた簡易循環式だよ」
「……え、これ?」
「そう」
「うわ、全然覚えてねえ……」
「だから寝るなって言われてるのよ」
ソニアが呆れたように言う。
ラウンジは相変わらず賑やかだった。
笑い声。
ページをめくる音。
どこかで誰かが紅茶をこぼして慌てている声。
平和な週末の午後。
そして俺は、再び教本に視線を落とした。
……やはり、全くもって分からん。
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4/26に第一部完予定しています。
よって、1部完結までは金・土・日で更新する予定です。




