第五章:歪みが零した異形(3)
――誰もいない迷宮の奥。
静まり返った石の回廊の中で、目に見えない何かが、わずかに揺らいでいた。
迷宮を満たしているはずの根源的な何か。
それが、気付かれぬまま少しずつ薄くなっている。
まるで、どこかへ流れ出しているかのように。
あるいは――
長い時間をかけて、静かに削られているかのように。
まるで、迷宮のどこかに大きく抉り取られた痕が残っているかのように。
だが、その理由を知る者はいない。
迷宮そのものですら、それを理解しているわけではなかった。
ただ、均衡が崩れつつある。
それだけは確かだった。
――やがて、その均衡が限界へ近づく。
その瞬間、迷宮の奥で何かが軋んだ。
外側。
この迷宮とは異なる、どこか別の場所。
長い時間、そこへ繋がろうとしていた何かが、均衡の揺らぎに気付いた。
――境界に、わずかなひびが入る。
ひびは拡大し、やがて迷宮の内と外を結ぶ、細い道が生まれた。
その瞬間、迷宮の魔素が一斉にざわめく。
迷宮そのものが、何かに反応しているようだった。
それは干渉を起こした。
とあるパーティにより迷宮の中に設置されていた装置へ。
ゆっくりと、迷宮からなにかを奪い続けていた装置。
それは一つではない。
第二階層。
第三階層。
第四階層。
第五階層。
第六階層。
それらすべてが、ほとんど同時にわずかに震えた。
装置内部で循環していた魔素が一瞬で乱れる。
細い糸のように空間へ伸びていた光が、逆向きに収束した。
まさしく奪われていたものを取り戻すかのように。
やがて迷宮は安定を取り戻す。
境界のひびは瞬く間に修復する。
切断。
迷宮に意思があるかなんて誰もわからないが、それはたしかに拒絶の反応だった。
結果として、接続はほんの一瞬。
だがその瞬間。
確かに――
外側にあった何かが、迷宮の内側へと滑り込んだ。
・ ・ ・
――暗闇。
そこには、何もなかった。
いや。
正確には、何も“成っていない”場所。
形も、時間も、意味も曖昧な空間。
そこに、何かがあった。
それは、不足していた。
何が足りないのか。
それを理解する知性はない。
ただ、足りない。
欠けている。
満たされていない。
その感覚だけが、存在のすべてだった。
不足。
不足。
不足。
それは、ただそれだけを求め続けていた。
時間という概念もない場所で、どれほどそれが続いたのかは分からない。
ただ一つ確かなのは――
それは、渇望していた。
足りない何かを。
満たすための何かを。
だが。
ここには、それが存在しない。
何もない。
何にもなれない場所。
その中で、それはただ不足に身をよじらせていた。
やがて。
何も成っていない空間に、ひびが入る。
外側。
どこか別の場所へと繋がる、わずかな裂け目。
それは、その意味を理解できなかった。
だが、本能が告げていた。
そこには――光がある。
不足を満たす何かが、ある。
だから。
それは、裂け目へと流れ込んだ。
光のある場所へ。
足りない。
足りない。
足りない。
足りない。
足りない。
そこは、形を持つ世界だった。
魔素が満ちる場所。
生命が動く場所。
そして。
満す為の何かが、確かに存在している場所。
それは理解も、思考も、意思も持たない。
ただ一つ。
本能だけがあった。
不足を満たすために。
それは、ゆっくりと動き始めた。
・ ・ ・
日曜日、昼頃。
白の地下聖堂第六階層。
「よし、これで最後だ!」
二年生の探索パーティの一人が剣を振り下ろす。
腐肉を纏った食屍鬼の首が飛び、崩れるように地面へ倒れ、やがて青い光へと変わっていく。
周囲にはすでに数体の魔素核。
戦闘は終わったばかりだった。
「ふう……こんなものか」
別の少年が肩を回しながら言う。
「とりあえず魔素核を回収しようか。 数が多いし」
そう言って少女がしゃがみ込み、魔獣が消えてその場に残っている魔素核に手を伸ばした――その瞬間。
何かが通り過ぎた。
風でも、影でもない。
速すぎて目で追えないような速度で何かが通りすぎたことだけは、辛うじて認識できた。
「……え?」
少女の手の先。
そこにあったはずの魔素核が、消えていた。
「今……何か通ったか?」
「待て、魔素核が……!」
視線を落とすと、他の魔素核もすべて消えている。
次の瞬間。
通路の奥で、わずかな揺らぎが見えた。
小さく、はっきりとは見えなかった。
だが、一瞬だけ姿を捉えた。
それは黒い――霧のような何か。
それが、瞬きする間に通路の向こうへ消える。
「お、おい! 今の見たか!?」
「何だ今のは? 魔素核を盗んだのはあれか? くそ! 追うぞ!」
慌てて少年の二人が走り出す。
だが。
「行き止まり? 見失ったのか?」
通路の先に辿り着いた時には、そこにはもう何も残っていなかった。
何一つ。
「……消えた?」
「何だったんだ、一体……」
追い掛けてきた少女も含めて、三人は顔を見合わせ困惑する。
幻でも見たのかと思うくらい一瞬の出来事。
だが、確かに何かがいた。
魔素核を盗んで逃げたものが。
小さく、黒い霧のようなものに包まれた――何かが。
・ ・ ・
月曜日、朝。
朝のホームルームが始まる直前。
中等部の二年生と三年生の教室では、ある噂が広がっていた。
――二年生教室。
「だから、本当に魔素核を盗まれたんだって!」
一人の少年が身を乗り出して言う。
だが、周囲の反応はどこか鈍い。
「はいはい、また大げさな話だろ。 いや、情けない話しか?」
「いや、本当なんだって!」
少年は必死に説明する。
「魔獣倒して、回収しようとしたらさ! 何かが通って……気付いたら全部なくなってたんだ!」
「何かって?」
「……それが分からないんだよ」
そこへ、同じパーティの少女が口を挟む。
「でも、確かに見たよ。 黒い……霧みたいなの」
「霧ぃ?」
誰かが笑う。
「それ、ただのネズミじゃないの?」
「迷宮の中でネズミとかあるのか?」
「いや、それは知らないけど」
「魔素核を盗まれたって、人にならまだしも、正体不明の何かだー? まだ寝ぼけてるのか、お前ら」
周囲は半ば冗談として受け流している。
だが、少年と少女は納得していない様子だった。
「だから違うって! 本当に何かいたんだって!」
「魔素核を持っていったんだよ!」
「はいはい。 きっと疲れてるんだ、お二方は」
「それより、そろそろ試験だし、そっちの話しないか? 俺、今回ヤバイんだよなー」
「お前の場合はいつものことだろ」
教室の空気はどこか他人事。 真剣に取り入る人はいなかった。
――三年生教室。
「昨日さ、妙なもの見たんだよ」
窓際で座っていた少女が、ぽつりと呟く。
「妙なもの?」
友人が首を傾げた。
「なんかね、魔獣を……食べているように見える何かがいたんだ」
「は?」
「正確には見えなかったんだけど。 なんか黒い……霧みたいなのがさ。 魔獣の身体を食っているように見えたの」
「まあ……後ろ姿だったし、俺たちが近づいたら、すごい速さで逃げたから正直俺らもよくわからないけど」
隣の少年も頷く。
「黒い霧、ねぇ……」
「新種の魔獣とか?」
「そんな話聞いたことないぞ」
友人たちは首を傾げる。
最初に呟いた少女がうーうんー、と半分唸りながら言う。
「ちゃんと見えた訳じゃないし、こいつの言う通り、私たちもよく分からないけど、それが去ったあと魔獣の身体はすぐに消えたよ。 ――そこにね、魔素核は残らなかったんだ」
「なにそれ? じゃそのワケわからないものは魔素核を食べたってこと?」
「ええ? 想像したらなんか気色悪い。 しばらく探索は控えようかな……」
中等部の間で、噂は静かに広がっていった。
――迷宮の自由探索が制限されている一年生たちを除いて。
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4/26に第一部完予定しています。
よって、1部完結までは金・土・日で更新する予定です。




