第四章:静かな亀裂 (5)
というのが、昨日までの話。
そして今、俺は迷宮の入り口の前に立っている。
白の地下聖堂。 その迷宮の入り口だ。
千年前。俺が生きていた時代には――迷宮など存在しなかった。
俺がまだ勇者と呼ばれていた時代。魔王と魔族に蹂躙され、血にまみれていたあの時代。
だが、それでも俺は生きていた。俺たちは、あの時代で必死に足掻き、生き延びようとしていた。
そのすべてが、今では跡形もない。完全な消失。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
ならば。
千年前には存在しなかったこの“迷宮”という存在に、答えがあるかもしれない。
たとえ薄い期待でも、今の俺にできることはそれくらいだ。
「ニナさん! いいからもう離れて!」
「もうちょっと~」
「隙あり! 一番乗りは俺のものだ!」
「人の話を聞かないか、貴様!」
――そして相変わらず、後ろは騒がしい。
いつまで続ける気だ、あいつら。
……このままでは埒が明かない。
小さく息を吐き、俺は一歩前へ出た。
門前に立つ衛兵たちは、どこか微笑ましげな目でこちらを見ている。 いや、あの騒がしい連中とは無関係です、と今この瞬間だけ全力で主張したいくらいには気恥ずかしい。
軽く会釈し、俺は入り口をくぐった。
「置いていくぞ」
「え、アベルくん! 待って~!」
「ああ、アベル! 一番乗りは俺のものだぞ! 抜け駆けは禁止だーっ!」
ニナとイチが慌てて追ってくる。
「……はあ……本当に大丈夫かしら、このパーティ……」
「この我を置いていくとはどういう了見だ!」
ソニアの疲れた声と、ラミアールの慌ただしい抗議が続く。
「ほっほっほ」
ハウゼンさんもゆっくり後をついてくる。
その姿を確認し、俺は迷宮の奥へと足を踏み入れた。
――迷宮探索、開始だ。
・ ・ ・
内部は、思ったより明るい。
光源らしきものは見当たらない。 それでも空間全体が、淡く白く照らされている。
壁も床も天井も白。 反射なのか、発光なのか、判別がつかない。
少し進むと、前方に下へ続く階段が見えた。
「よし、俺が行く!」
イチが勢いよく先頭に立つ。
その背を見ながら、俺は続いた。
順に、俺、ソニア、ラミアール、ニナ。
そして最後尾にハウゼンさん。
最後の段を踏み越えた瞬間。
――ぞくり。
左目の奥に、かすかな違和感。
痛みではない。異物でもない。
ほんのわずかな揺らぎ。 初迷宮という緊張がなければ、気づかなかったかもしれない程度の。
だが確かに、何かを感じた。
視線を上げる。
そこに広がっていたのは、名にふさわしい光景だった。
白の地下聖堂。
やや低めの天井。整然と並ぶ柱。アーチ状の回廊。 確かに“聖堂”のらしさを感じられる外見をしている。
だが、神聖さはない。
空気は乾き、冷たい。
外界とは異なる法則が働く異空間。
本で読んだ説明そのままだ。
実際に踏み込むことで、改めて実感が湧く。
――これが、迷宮。
「よしっ! 行くぞ!」
イチが興奮気味に駆け出す。
「だから先走るなと何度も言っているだろう!」
ラミアールが小言を言いながら追いかけ、残りのメンバーも続いた。
回廊のような一本道が続く。
やがて最初の分岐。
左右に分かれた通路。 見た目では判別不能だ。
どちらへ進むべきか一瞬迷っていると、ソニアの声が響く。
「この迷宮に罠はないはずよ。どちらへ行っても大差はないはず」
「なるほどな!じゃあ右だ!」
イチは迷わず右へ。 俺たちも続く。
しばらくは特に何も起こらない。
途中、鉱石や薬草を見つけると、ラミアールが丁寧に採集して鞄に収める。
迷宮産の鉱石や薬草は魔素を含んでいる。それだけで外界のものとは異なる価値を持つらしい。
その後も分岐は何度も現れた。
似たような白い通路。同じ柱。同じ光景。
……確かに、これは迷うな。
“迷宮”と呼ばれる理由の一端を実感する。
そのとき。
視界の端で、ニナが見慣れないものを手にしていることに気づいた。
薄い板状のそれを片手で支え、もう一方の手で細い筆のようなものを動かしている。
歩調を落とし、俺は隣に並んだ。
「ニナ。それは?」
「あ、これ? 地図作ってるの!」
それにしては、紙は見当たらない。視線は自然と、その板へ向かう。
「それで?」
「うん。魔素導板っていうの。迷宮探索の必需品だよ!」
指で表面をなぞると、淡い光の線が滑るように走り、描かれた簡略図が拡大される。 逆に広げる動作をすると、地図は縮小され、全体像が俯瞰できる。
よく見ると、俺たちが今いる位置を示す小さな光点がゆっくりと動いていた。
「迷宮の中だとね、装置が周囲の魔素の流れを読み取って、大まかな移動方向を記録してくれるの」
淡く伸びる線は、完全な直線ではなく、ところどころわずかに歪んでいる。
「でもね、細かい曲がり角とか分岐は自分で補正しないといけないんだよ。ほら、ここ」
ニナは筆先で分岐点をなぞり、線を微調整する。 すると曖昧だった分かれ道が、はっきりと枝分かれした形に整えられた。
「だから完全自動ってわけじゃないの。あくまで“補助”。油断すると結構ズレるんだよ」
拡大された地図の上に、枝分かれした線がはっきりと表示される。
「それだけじゃなくてね」
ニナは筆先で一点をつついた。 すると小さな印が出現し、横に簡単な文字が浮かび上がる。
「採掘ポイントとか、採集場所とか、危険区域とかも登録できるの。後から見返せるし、パーティ内で共有もできるんだよ」
どうやら表示されるのは、現在地を示す一点の光のみらしい。
「今いる場所は分かるけど、他のみんなの位置までは出ないよ。そこまでは高級品じゃないからね」
なるほど。あくまで探索補助用というわけか。
「低級魔素核でも長時間動くし、記録は内部に保存されるの。だから途中で消えたりもしないよ」
得意げに笑うニナ。
俺はしばし言葉を失った。
魔素革命。
この時代に目覚めて以来、何度その名に驚かされたことか。
千年前には存在しなかった技術。
改めて、今の時代の発展に純粋な感心を覚える。
そんな会話をしていると、前方に今までとは少し異なる空間が現れた。
礼拝堂に似ている。
だが、女神像も長椅子もない。
代わりに――
「構えて。魔獣よ」
他の面々が一斉に武器を抜き、戦闘態勢を取る。
だが――俺の身体は、固まったまま、動かなかった。
魔獣。
ソニアは確かにそう言った。
魔獣については知っている。千年前にも存在していた。魔素に侵され、凶暴化した獣や魔物。
だが、目の前にいる“それ”は――俺の知る分類には当てはまらない。
ゆらり、と不自然に揺れる腐敗した肉体の動く死体。
虚ろな眼窩に蒼白な光を宿す骸骨騎士。
――アンデッド。
千年前、魔族が人類を追い詰める際に用いた、女神を冒涜する呪われた魔法の一種――死霊術によって魔族の戦争の道具として使役された者たち。
死してなお安息を許されず、強制的に同胞を害した。哀れで悲惨な元人間。その成れの果て。
それが、この時代では“魔獣”と呼ばれているというのか。
迷宮には魔獣が出現する。
その知識は本や授業で十分に得ていた。
だが――その中身までは、知らなかった。
……どういうことだ。
思考が追いつかない。
その瞬間。
「おらあっ!」
イチが真っ先に飛び出した。
大剣が振り下ろされ、迫っていた動く屍の胴体を真っ二つに叩き斬る。
腐肉が飛び散る――はずだった。
だが。
切断面から、青い粒子が零れ落ちる。
次の瞬間、肉体そのものが淡い蒼の光へと変じ、空中へと溶けるように崩れていった。
……散らない。
腐臭も、血も、残骸も残らない。
蒼い粒子。
濃縮されていた魔素が拡散する際に、視認できる形で現れる現象。
生あるものが死ぬ時、こんな現象は起きない。
それは魔獣も、人の死体を操るアンデッドも同じだ。
ただ一つの例外を除いて。
――魔族と、魔王。
この消滅の仕方は、正に魔族のそれと酷似、いや、そのものだった。
ずきり、と。
左目の奥に、激痛が走る。
反射的に目を押さえる。
何だ。
何だ、これは。
何なんだ、これは!!
吐き気すら込み上げる。
イチが斬った個体だけではない。
ラミアールの魔法に。
ソニアの剣に。
ニナの魔素銃に撃ち抜かれたアンデッドたちが。
すべて、同じように蒼い粒子となって崩れ、跡形もなく消滅していく。
残るのは、魔素核だけ。
「ちょっと!あんた、何ぼーっとしてるのよ!」
ソニアの叱声が飛ぶ。
二体の骸骨騎士を同時に斬り伏せながら、鋭く俺を睨む。
「アベルくん! 大丈夫!? 顔色すごく悪いよ! 具合悪いの!?」
ニナが撃ち抜いた屍を振り返り、こちらへ駆け寄る。
「おらぁっ! 食らえぇっ!」
イチが豪快にアンデッドを薙ぎ払う。
「ふん。品位の欠片もない下劣な魔獣ども。せめて我が技で華麗に散れ」
ラミアールが魔法と剣を交えて敵を圧倒する。
……誰一人。
この異様さに気づいていない。
まるで、それが当然であるかのように。
視界の端で。
ハウゼンさんの姿が見えた。
だが彼が見ているのは、蒼く消えるアンデッドではない。
――俺だ。
その視線は、迷宮の異変ではなく、俺の反応を観察しているようだった。
その瞬間、俺は初めて、本当の意味で理解した。
俺は、未知の世界に投げ込まれたのだと――
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4/26に第一部完予定しています。
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