暴かれた秘密と、波乱の予感
放課後の校舎は、部活動に励む生徒たちの遠い歓声と、夕日を浴びて長々と伸びる影に包まれていた。
生徒会室の中では、夏の学園祭に向けた最終予算案の書類整理が行われていた。
デスクに向かう涼香は、スッと背筋を伸ばし、清廉潔白な「夏目先輩」として淡々とペンを走らせている。
「——うん、この備品費の申請はこれで問題ないわ。みんな、今日も手際よく進めてくれてありがとう」
「さすが夏目先輩! 先輩が仕切ってくださると、本当に仕事がスムーズに進みます!」
「ええ、後輩のみんなが頑張ってくれているおかげよ」
涼香は完璧な笑みを浮かべ、後輩たちからの尊敬の眼差しを受け止めていた。
しかし、そのブラウスの胸元の中——昨夜、樹につけられた甘い首筋の痕跡(※第92話のお仕置き)を隠すために、彼女は普段着けない高めのレースハイネックをしっかりと着込んでいた。
(……ふぅ、なんとか誤魔化せているわね。……あとのスケジュールは、資材置き場の確認だけ……)
涼香はふと、手元の時計に目をやった。
17時。樹と約束した「生徒会室裏の通路」での待ち合わせ時間まで、あと少し。
「みんな、今日の作業はここまでにして下校してちょうだい。鍵の管理と最終確認は、私がやっておくから」
「えっ、夏目先輩が一人で? 申し訳ないです……!」
「いいのよ。これも副会長の務めだから。気をつけて帰ってね」
「はい! お疲れ様でした、夏目先輩!」
後輩たちが爽やかに挨拶をして退室していく。
静まり返った生徒会室で、涼香は一瞬だけ肩の力を抜き、ふっと安らぎの吐息を漏らした。
「……よし。急いで資料を片付けて、樹くんのところに行かなくちゃ」
涼香は嬉しそうに琥珀色の瞳を輝かせると、かばんを手に取り、誰もいないはずの裏通路へと向かった。
校舎の陰に位置する資材置き場裏は、人通りが全くない二人だけの「聖域」だった。
壁に背中を預けて待っていた樹のもとへ、カツ、カツと聞き慣れた高跟鞋の音が近づいてくる。
「……樹くん!」
「涼香! お疲れ様。今日も生徒会の仕事、大変だったでしょう?」
角を曲がってきた涼香は、周りに誰もいないことを確認するや否や、我慢限界と言わんばかりに樹の胸元へ飛び込んできた。
「……ん……っ……! 樹くん不足で、死んじゃいそうだったわ……」
「わっ、涼香!? 急に抱きついたら危ないよ……」
「だって……今日はずっと会議で、樹くんの顔を遠くからしか見られなかったんだもの……」
涼香は樹の服をギュッと掴み、胸元に顔を擦り付けながら甘えた声を出す。
先ほどまで生徒会室で「完璧な副会長」を演じていた人物と同一人物とは、誰も信じられないだろう。
「……ねえ、樹くん。ちょっとだけ……エネルギー補給させて?」
涼香は上目遣いに照れくさそうに樹を見上げると、かかとを少し浮かせ、自分の唇を樹の唇へと重ね合わせた。
西日が二人の影を長く引き伸ばし、夕暮れの静寂の中に、チュッと小さな甘い音が響く。
「……ふふ、これで少し元気が……ん?」
接吻を終え、樹の胸に額を預けていた涼香が、ふと眉をひそめた。
——カサッ。
資材置き場の陰、積み上げられた段ボールの隙間から、小さな乾燥した葉を踏む音が聞こえた。
「……え?」
樹と涼香の身体が、同時に硬直する。
「な、誰かいるの……!?」
樹が咄嗟に涼香を自分の背中に庇い、警戒の視線を音のした方へと向けた。
すると、影の中から……生徒会の1年生後輩女子・美咲が、手に書類の束を持ったまま、目を極限まで見開いて固まっていた。
「な……夏目……先輩……!?」
美咲の顔は蒼白になり、手にした書類がパラパラと地面に落ちていく。
「さ、さっき……キス……それに……『樹くん』って……え……? 冴えない後輩の櫻井くんと……付き合って……!?」
「美咲ちゃん……っ!?」
涼香の顔から、一瞬で血の気が引いていった。
絶対にバレてはならない「学校一の氷山姫」と「無名な後輩」の極秘関係。
それが、よりによって生徒会の後輩に、バッチリと現場を見られてしまったのだ。
「ち、違うの……これは……っ!」
涼香は焦って前へ出ようとしたが、声が震えて上手く言葉が出てこない。
普段ならどんなトラブルも完璧に処理する彼女が、あまりの動揺に立ち尽くしてしまう。
その時——樹が前に踏み出し、美咲と涼香の間に静かに立った。
「美咲さん」
樹の聲は、驚くほど冷静だった。
彼は震える涼香の手を、背しろでキュッと力強く握りしめた。
「見た通りです。……僕と夏目先輩は、お付き合いしています」
「ツ、樹くん……っ!?」涼香が目を見開く。
「櫻井くん……本気なの……? あの高嶺の花の夏目先輩と……!?」美咲は信じられないものを見る目で二人交互に見つめる。
「はい。先輩を混乱させてしまってすみません。でも、先輩は僕の前でだけ、本当の自分を見せてくれているんです。……お願いです、このことは誰にも言わないでいただけませんか?」
樹はまっすぐに美咲の目を見つめ、深く頭を下げた。
涼香は背中で繋がれた樹の手の温もりに触れ、自分の胸の奥が熱く震えるのを感じていた。
守られてばかりだった「冴えない後輩」が、自分の危機に一番に立ち上がり、堂々と自分との関係を認めてくれたのだ。
涼香もハッと正気を取り戻すと、樹の隣に並び、いつもの凜とした(だがどこか優しさを帯びた)表情で美咲を見つめた。
「……美咲ちゃん。困惑させてしまってごめんなさい。でも……櫻井くんは、私にとって世界で一番大切な人なの。完璧じゃない私も全部受け止めてくれる……私の特別な人なの」
「夏目……先輩……」
美咲は、二人の固く結ばれた手と、お互いを深く信頼し合う強い眼差しを見て、息をのんだ。
そこにあったのは、噂されるようなスキャンダルではなく、お互いを心から想い合う「本物の恋」だったからだ。
「……わかりました」
美咲は地面に落ちた書類を拾い上げると、少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「……私、口は堅い方ですから。生徒会の誰にも言いません。……でも! 夏目先輩を泣かせたら、私絶対に櫻井くんを許しませんからね!」
「……美咲ちゃん……! ありがとう……!」
美咲がペコリと頭を下げて走り去っていくのを見送り、静寂が再び二人を包み込んだ。
「……ふぅ……」
危機を脱した瞬間、涼香の緊張の糸が切れ、その場に崩れ落ちそうになった。
樹は慌てて彼女の華奢な身体を抱きとめる。
「涼香! 大丈夫!?」
「……ううん、大丈夫……ただ、心臓が破裂しそうだったわ……」
涼香は樹の胸に顔を埋め、安堵の涙をポロポロとこぼした。
「でもね、樹くん……すごく嬉しかったわ。あなたが……みんなの前で、私との関係を堂々と言ってくれたこと……」
「当たり前だよ。僕は涼香の夫……ううん、彼氏なんだから。涼香を守るためなら、何だってするよ」
「……ツキ……」
秘密が暴かれた放課後。
しかし、試練を乗り越えた二人の絆は、以前よりも遥かに強く、深く結ばれていた。
夕闇が二人を包み込む中、新たな波乱の予感とともに、二人の物語は次のステージへと動き出すのだった——。




