放課後の図書館と、テーブルの下の秘密
期末テストを一週間後に控えた、木曜日の放課後。
橘樹は、校舎の最上階の奥深くに位置する図書館へと足を運んでいた。
この時間の図書館は、テスト勉強をする生徒たちでそこそこの賑わいを見せている。しかし、樹が目指したのは、最も奥にある『歴史資料コーナー』の陰にひっそりと置かれた、小さな二人掛けのテーブルだった。
周囲からは本棚が死角となっており、よほど近づかない限り誰が座っているかも分からない、校内屈指の隠れスポット。
「……遅いわよ、橘くん。三分遅刻」
すでに席に座り、ノートを開いていた夏目涼香が、時計に視線を落としながら小さく唇を尖らせた。
今日の彼女は、制服の第一ボタンまでしっかりと留め、黒髪を綺麗に整えた『完璧な生徒』の姿。けれど、樹の顔を見た瞬間にふっと緩んだ瞳が、二人の特別な関係を物語っていた。
「すみません、日直の仕事で遅くなりました」
「いいわ、許してあげる。……ほら、早く座りなさい。今日はあなたが苦手だって言っていた数学Ⅰの二次関数を徹底的に叩き込むんだから」
「よろしくお願いします、夏目先生」
「学校では『先輩』でしょう?」
涼香はそう言ってクスッと小さく笑うと、自分のシャープペンシルを手に取った。
図書館という場所柄、会話はすべて息のような囁き声で行われる。
テーブルの上に二人で一枚の参考書を広げると、自ずと二人の距離は肩が触れ合いそうなほど接近した。
「いい? この問題は、まず頂点の座標を求めるために平方完成をするのよ。こうやって……」
涼香の細い指先が、ノートの上にサラサラと綺麗な文字を走らせていく。
耳元で囁かれる息混じりの声。ふんわりと漂う、いつもの甘い白茶の香り。そして、すぐ隣にある彼女の柔らかな体温。
(集中……集中しろ、俺の頭……!)
樹は必死に意識を数学の公式に向けようとしたが、至近距離にある涼香の綺麗な横顔や、耳から覗く小さな耳たぶに視線が吸い寄せられてしまう。
「……橘くん?」
ふと、涼香がペンを止め、上目遣いで樹の顔を覗き込んできた。
「なにボサッとしているの? 私の顔に公式でも書いてあるかしら?」
「い、いえ! 先輩の教え方が分かりやすくて、感心していただけです!」
「……嘘ね。さっきから視線がどこを向いているか、分かっていてよ」
涼香は呆れたように息を吐いたが、その頬はほんのりと朱色に染まっていた。
「まったく……テストで赤点を取ったら、週末のおうちご飯は抜きにするわよ?」
「それだけは勘弁してください! 本気出します!」
「ふふ、なら頑張りなさい」
涼香は嬉しそうに目を細め、再び丁寧に解説を始めた。
それから一時間ほど、真剣な勉強会が続いた。
涼香の教え方は驚くほど的確で、樹がずっと引っかかっていた疑問点がみるみるうちに氷解していく。
「よし、これで大問3の類題は完璧ね。……ふぅ」
涼香は小さく背伸びをし、細い首筋を伸ばした。
放課後の陽光が窓から差し込み、彼女の黒髪を金色に透かしている。
「……疲れましたか?」
「少しね。でも、あなたがちゃんと理解してくれて良かったわ。教え甲斐があるもの」
「全部先輩のおかげです。お礼に、今度の週末は僕が夕飯を作りますよ」
「え? あなたが?」
涼香は目を見開き、どこか疑わしそうな視線を向けてきた。
「大丈夫ですか? 料理のレパートリー、焼きうどんくらいしかないんじゃないの?」
「失礼ですね。こう見えてもクックパッドを見れば炒め物くらい作れますよ。先輩を休ませてあげたいんです」
「……っ」
涼香は言葉を詰まらせ、気まずそうに視線を下に落とした。
「……気持ちだけで十分よ。でも……楽しみにしておくわ」
そっぽを向く涼香だったが、机の下で伸ばされた彼女の足が、樹の足にちょこんと当たっていた。
その時だった。
カツン、カツンと、本棚の向こうから足音が近づいてきた。
「〜♪」
(っ……! 誰か来る……!)
樹の背中に緊張が走る。
こんな本棚の奥で、二人きりで身を寄せ合って勉強している姿を見られたら、確実に怪しまれる。
「……静かに」
涼香が素早く樹の袖を引っ張った。
二人は息を殺し、気配を消してテーブルに覆いかぶさるように体勢を低くした。
本棚の隙間から見えたのは、図書館員の委員生徒だった。本の返却棚を整頓しながら、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
(やばい……ここを通られたら丸見えだ……)
樹の心臓が激しく脈打ち始める。
その瞬間――
机の下で、そっと温かい何かが樹の右手に触れた。
(……え?)
樹が驚いて横を見ると、涼香が固く目をつぶりながら、樹の手をぎゅっと握りしめていた。
彼女の小さく柔らかい手が、樹の指と指の間に滑り込んでくる。恋人繋ぎ。
「……っ」
涼香の顔は、熟したリンゴのように真っ赤になっていた。
極度の緊張と照れくささで、彼女の手はかすかに震えている。
(先輩……)
樹も静かに力を込め返した。
互いの指をしっかりと絡め合い、互いの激しい鼓動を手のひら越しに確かめ合う。
図書委員の足音が、テーブルのすぐ横を通り過ぎていく。
カツン、カツン……。
一秒が、まるで一時間のように長く感じられた。
やがて足音は遠ざかり、図書館の入り口の方へと消えていった。
「……ふぅ」
安全が確保された瞬間、二人は同時に安堵の息を吐き出した。
しかし――握られた手は、離れなかった。
「……あの、先輩」
「……なにかしら」
涼香は手を開こうとせず、真っ赤な顔のまま、じっと握られた自分の手と樹の手を見つめていた。
「手……離さないんですか?」
「っ! こ、これは事故よ! 緊張してつい……!」
慌てて手を引き抜こうとする涼香。だが、樹はほんの少しだけ力を込め、彼女の細い手を優しく引き留めた。
「……僕、このままでもいいですよ」
「〜〜〜っ! バカ! ここは学校よ!?」
涼香は今度こそパッと手を離し、両手で自分の顔を覆ってテーブルに突っ伏してしまった。
真っ赤になった耳たぶだけが、髪の隙間から覗いている。
「……もう、今日は終わり! 帰りましょう!」
「ふふ、はい。荷物持ちますね」
「……自分の鞄くらい自分で持てるわよ」
ぷいっと横を向いて立ち上がる涼香だったが、その歩調はどこかわずかに浮かれていて、いつもより歩幅が小さくなっていた。
夕暮れ時の図書館。
静まり返った空気の中で、交わされた秘密の温もり。
テスト前の緊張感も忘れるほど、二人の甘い距離は、また一歩、確実に深まっていたのだった。




