手作りのお返しと、解けたアイスクリーム
地獄の期末テスト期間が、ついに終わりを迎えた。
最後のチャイムが校内に響き渡った瞬間、どの教室からも歓声と解放感に満ちた溜め息が漏れ聞こえてきた。橘樹もデスクに伏し倒れそうになりながら、自分の答案用紙が回収されるのを眺めていた。
(……涼香先輩のおかげで、赤点は絶対回避できたはずだ)
テスト中の手ごたえは悪くない。特に数学Ⅰの二次関数は、図書館で涼香が徹底的に叩き込んでくれた類題がそのまま出題されていたほどだ。
放課後。樹は約束通り、スーパーで買い揃えた食材の袋を両手に下げて自分の部屋へと帰宅した。
そして夕方の六時すぎ。
ピンポーンと、聞き慣れたインターホンの音が響く。
「はい」
樹がドアを開けると、そこには制服から白のノースリーブニットに着替えた夏目涼香が立っていた。
「お邪魔するわね。……それで、本当にあなたが作るつもりなの?」
涼香は靴を揃えて上がりながら、どこか心配そうにキッチンの方向へ視線を送った。
「もちろんです。今日は先輩は一切手出し禁止ですよ。そこに座って、大人しく待っていてください」
「ふん……大丈夫かしら。台所を火の海にしないでちょうだいね」
口では軽口を叩いているものの、涼香は素直にローテーブルの前に正座した。
けれど、いつもなら自分が仕切るキッチンに樹が立ち、包丁を握っている姿を見るのは落ち着かないらしく、そわそわと小動物のように視線を泳がせている。
今日樹が挑戦するのは――『特製和風生姜焼き定食』だ。
YouTubeの料理動画を何度も見返し、メモを取って予習してきたメニュー。
千切りキャベツを用意し、玉ねぎをスライスし、豚肉を特製の生姜タレに漬け込んでいく。
「……手際、思ったより悪くないじゃない」
耐えきれなくなったのか、涼香がちょこんと後ろから覗き込んできた。
ふんわりと漂う彼女の甘い香り。
「後ろで見られると緊張するので、座っててくださいって」
「減るもんじゃないでしょう。それに……あなたが私のために料理を作ってくれている姿なんて、滅多に見られないもの。……見ておきたいわ」
「っ……」
さらっと破壊力抜群の言葉を口にする涼香。
樹は照れ隠しにジュウジュウと音を立てるフライパンに集中した。
甘辛い生姜醤油と肉の香ばしい匂いが部屋中に広がる。
タレが肉に絡み、艶やかな照りが出たところで火を止めた。
「お待たせしました。橘特製、生姜焼き定食です!」
テーブルの上に並べられたのは、たっぷりの千切りキャベツに添えられた生姜焼き、温かいお味噌汁、そしてツヤツヤのご飯。
見た目は料亭レベルの涼香の料理には遠く及ばない。けれど、一人暮らしの高校生が一生懸命作った温もり溢れる一皿だ。
「……いただきます」
涼香は手を合わせ、慎重に箸を伸ばした。
一口サイズの豚肉を小さく口へと運ぶ。
モグ、モグ……。
樹は生きた心地がしなかった。
料理のプロ並みの腕前を持つ彼女の舌に、自分の料理が合うかどうか。生唾を飲み込んで彼女の反応を待つ。
涼香は静かに目をつぶり、味わうように咀嚼した。
そして――ゆっくりと目を開けると、琥珀色の瞳が驚きで大きく見開かれていた。
「……美味しい」
「本当ですか!?」
「ええ……すごく美味しいわ。お肉も柔らかいし、生姜の風味がしっかり効いていて……キャベツと一緒に食べると最高ね」
涼香の口元が、まるでつぼみがほころぶように優しく緩んだ。
「よかった……! 実は隠し味に、先輩が前に教えてくれた蜂蜜をほんの少し入れたんです」
「……私の教えを守ったのね。えらいわ」
涼香は心底嬉しそうに微笑み、二口目、三口目と嬉しそうに箸を進めていく。
学校で『氷山姫』と呼ばれ、家では一人で冷めた料理を食べていた彼女が、いま自分の目の前で、自分が作ったご飯を「美味しい」と言って食べてくれている。
その事実だけで、樹の胸は一杯になった。
「ごちそうさまでした」
綺麗に完食した涼香は、心から満足したように息を吐いた。
「……ねえ、橘くん」
「はい?」
「お返し……と言ったらなんだけど。テストの労いも含めて、これを持ってきたの」
涼香は自分のカバンから、小さな保冷バッグを取り出した。
中から出てきたのは、少し高価なカップアイスクリームが二つ。
「買い出しの時に買っておいたのよ。食後のデザートにどうかしら」
「うわ、高級なやつじゃないですか! ありがとうございます!」
二人は食後のテーブルで、並んでアイスクリームのフタを開けた。
バニラの甘い香りが広がる。
「……テスト、手ごたえはどうだったの?」
「先輩のおかげでバッチリです。特に数学は、教わったところがそのまま出ました!」
「ふふ、そう。私の家庭教師としての腕が良い証拠ね」
「はい。本当に感謝してます。……手、握ってくれたのも……力になりましたし」
「~っ! ぐ、具体的なことは思い出さなくていいわよ!」
途端に真っ赤になる涼香。
照れ隠しにアイススプーンを口に運ぶ姿が可笑しくて、樹は小さく笑った。
ふと、部屋のエアコンの風が揺れ、二人の距離が再び自然と近くなる。
「……ねえ、橘くん」
涼香がスプーンを止め、少しだけ真剣な瞳で樹を見つめてきた。
「私ね……前は、一人でいるのが当たり前だったの。学校でも、家でも……誰にも期待せず、一人で完璧でいれば傷つかないって思ってた」
「先輩……」
「でも……あなたと出会って、ベランダでご飯を渡して……一緒に買い物に行って、勉強して……」
涼香は自分の胸元をぎゅっと掴み、小さく息を吸い込んだ。
「一人で食べる贅沢な料理より、あなたと一緒に食べる不器用な生姜焼きの方が……百倍、美味しいって知っちゃったの」
それは、高嶺の花の仮面を完全に脱ぎ捨てた、一人の少女の素直な告白だった。
少し溶けかけたバニラアイスのように、甘く、柔らかな空気が部屋を満たしていく。
「……これからも、私をご飯に誘ってくれる?」
上目遣いで、少しだけ不安そうに揺れる琥珀色の瞳。
樹はスプーンを置き、まっすぐに涼香の目を見返した。
「誘うに決まってるじゃないですか。僕の方こそ……ずっと涼香先輩の隣にいたいです」
「……っ」
涼香の頬が、今日一番の赤さに染まる。
彼女は咄嗟に持っていたアイスのカップで顔を隠したが、耳たぶまで真っ赤になっているのは隠しきれていなかった。
「……バカ。……調子の良いことばかり言って」
カップの陰から聞こえた声は、今までで一番甘く、優しく耳に響いた。
テストが終わり、夏休みがすぐそこまで迫っている。
二人の秘密の関係は、季節の深まりとともに、より甘く、より深く、確かなものへと変わっていくのだった。




