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二人のキッチンと、一口分のご褒美

「失礼するわね」


買い出しから戻った二人は、そのまま橘樹たちばな いつきの部屋へと直行した。

夏目涼香なつめ すずかは自分の革バッグと帽子をデスクの上に置くと、迷いのない手つきでサッと髪を一つにまとめ、カバンから持参した淡いピンク色のエプロンを取り出して身につけた。


胸元でリボンを結び、くるりと振り返る姿は、先ほどまでの「高嶺の花」から一転して完璧な「若妻」の雰囲気を醸し出している。


「……なにボーッと見ているの? 荷物を片付けたら、あなたも手を洗ってきなさい。今日は下準備を手伝ってもらうわよ」


「あ、はい! 今すぐ洗ってきます!」


樹は慌てて洗面所へ走り、念入りに手を洗って戻ってきた。


樹のワンルームにある狭いキッチンスペース。

普段は一人で立つのが精いっぱいの場所に、二人が並んで立つと必然的に肩と肩が触れ合いそうなほど距離が近くなる。


「いい? 橘くんには大根おろしと、豆腐の水切りをお願いするわ」


「了解です。大根おろしですね」


涼香から受け取ったおろし金と大根を持ち、樹はゴリゴリと大根をおろし始めた。

そのすぐ隣では、涼香が慣れた手つきで包丁を握り、玉ねぎを細かくみじん切りにしていく。トントン、トントンと軽快で心地よいリズムが狭いキッチンに響き渡る。


「すごいな……包丁の音がプロですね」


「これくらい普通よ。毎日料理をしていれば勝手に身につくわ」


涼香は口元を少し誇らしげに緩めながら、フライパンで玉ねぎを透き通るまで炒め始めた。香ばしい甘い香りが一気にキッチンを満たしていく。


「大根おろし、できました」


「ありがとう。次は挽肉と豆腐、それから炒めた玉ねぎと調味料をボウルに入れて練り合わせるわ。……一緒にやるから、ボウルを押さえていてちょうだい」


「はい」


樹がボウルを両手でしっかり押さえると、涼香は袖を少し捲り上げ、両手で肉種をコネコネと捏ね始めた。

ふと、涼香の顔と樹の顔が目と鼻の先にあることに気づく。


真剣な眼差しでボウルを見つめる彼女の横顔。長いまつ毛、透き通るような白い肌、そして耳元から漂う甘いシャンプーと柑橘系の残り香。


(ち、近すぎる……)


樹が息を呑んで固まっていると、涼香がふと顔を上げた。


「……なに? 私の顔に何か付いているかしら?」


「え!? い、いえ! 何でもないです! 手際がいいなって思って……」


「ふん、怪しいわね……。ほら、形を整えるわよ。手に少し油を塗って、こうやって空気抜きをするの。ポン、ポンって」


涼香が手本を見せるように、手際よく小判型に整えていく。

樹も真似をして肉種を手に取り、空気を抜こうとするが――


「あ、ちょっと力が入りすぎよ。それじゃ肉汁が外に逃げちゃうでしょう?」


「え、あ、すみま――」


言いかけた瞬間、涼香が後ろから樹の手をそっと包み込んだ。


「っ……!?」


「こうよ。優しく、でもしっかりと……両手の平でキャッチボールをするように……」


樹の手の上に重なる、涼香の小さくて柔らかい手。

背中越しに伝わってくる彼女の微かな體溫と、首筋にかかる暖かい吐息。樹の心臓は、まるで爆発しそうなほど激しく打ち鳴らされた。


「……あ」


涼香も自分が何をしているかに気づいたのか、ハッと息をのんでパッと手を離した。


「ご、ごめんなさい! 手際があまりにも危なっかしかったから、つい……!」


「い、いえ! 教えてくれてありがとうございます……!」


二人の顔は、熟したトマトのように真っ赤に染まっていた。

気まずい沈黙を破るように、涼香は慌ててフライパンに火をつけた。


「フ、フライパンが温まったわ! 焼くわよ!」


ジュワアアアッ! と、肉種が油に触れた瞬間の激しい音がキッチンに響き渡り、香ばしい肉汁の匂いが立ち上った。


両面に綺麗な焼き色をつけると、涼香は酒を回しかけてフタをし、弱火でじっくりと蒸し焼きにしていく。


「……最後に、タレの味付けよ。ポン酢に少しだけみりんと醤油、それから隠し味に生姜の絞り汁を加えるの」


涼香は小鍋で一煮立ちさせた和風タレをスプーンですくい、息を吹きかけてフウフウと冷ました。


「……橘くん」


「はい?」


樹が振り向くと、涼香はスプーンを樹の口元へと差し出していた。


「味見をしてちょうだい。タレの濃さがこれでいいか確認したいの」


「え……僕がですか? 先輩がすれば――」


「私が味付けすると、どうしても自分の好みに偏ってしまうでしょう? あなたのために作っているんだから、あなたの口に合うかどうかが重要なの」


涼香はそう言うと、琥珀色の瞳でじっと樹を見つめてきた。

スプーンを持つ彼女の手が、ほんの少しだけ震えている。


「……早くしなさい。冷めちゃうわ」


(これって……いわゆる『あーん』ってやつじゃ……!?)


樹はゴクリと唾を飲み込んだ。

断る理由などどこにもない。樹は腹を括り、そっと口を開けた。


「……じゃあ、いただきます」


ぱくり。


スプーンから口の中に広がったのは、さっぱりとしたポン酢の酸味と、生姜の爽やかな風味、そして深みのある出汁の旨味だった。絶妙なバランスで、いくらでも食べられそうな味付けだ。


「……どうかしら?」


涼香が上目遣いで、期待と不安の混ざった瞳で顔を覗き込んできた。


「……完璧です。めちゃくちゃ美味しいです! このタレだけでご飯三杯いけます」


「〜っ! 誇張表現がすぎるわよ……!」


涼香は安堵したように胸を撫で下ろし、嬉しさを隠すように背を向けた。

だが、その背中はあからさまに軽やかなステップを踏んでいるようだった。


二十分後。


ローテーブルの上に、出来立て熱々の和風豆腐ハンバーグプレートが並べられた。

ふっくらと膨らんだハンバーグの上には、たっぷりの大根おろしと青じそ、そして艶やかな和風タレがたっぷりとかかっている。


「「いただきます」」


二人は手を合わせ、同時に箸を伸ばした。


箸を入れた瞬間、溢れ出す肉汁と豆腐のふんわりとした柔らかさ。口に運ぶと、さっぱりとしたタレと肉の旨味が口いっぱいに広がり、幸福感が全身を駆け巡る。


「うわ……なにこれ、柔らかい……! 豆腐が入っているからすごくヘルシーなのに、満足感がすごいです」


「ふふ、でしょう? これなら夜遅くに食べても太る心配はないわ」


涼香は自分のお手製ハンバーグを上品に口に運び、満足そうに瞳を細めた。


「……ねえ、橘くん」


「はい?」


「……今日、楽しかったわ」


涼香は箸を置き、照れくさそうに自分の髪を耳にかけた。


「一人で買い物をして、一人で料理を作るのは……もうずっと慣れていたけれど。こうやって誰かと一緒に買い出しに行って、一緒にキッチンに立って、同じテーブルで食べるのって……こんなに美味しいのね」


それは、彼女の心からの本音だった。

孤高の『氷山姫』として、誰にも弱みを見せず、一人で完璧であり続けようとしていた彼女が、初めて手に入れた温かい居場所。


樹は胸が熱くなるのを感じながら、力強く頷いた。


「僕もです、涼香先輩。僕一人だったら、こんなに美味しいご飯も、楽しい週末も知らずに終わってました」


「……そう。なら、来週の週末も……あけておきなさいね」


「えっ、来週もですか?」


「なによ、嫌なの?」


「嫌なわけないです! 喜んであけておきます!」


「……よろしい」


涼香は小さくクスッと笑い、再びハンバーグに箸を伸ばした。


一口食べるごとに縮まっていく、二人の心と体の距離。

夕暮れの部屋に広がる美味しい手料理の匂いと、甘く焦れったい二人の空気は、どこまでも愛おしく響き渡るのだった。

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