休日スーパーと、二人だけの秘密の買い物
日曜日の午後二時。
陽光が燦々と降り注ぐ街のメインストリートを、橘樹は少し緊張した面持ちで歩いていた。
隣を歩くのは、もちろん夏目涼香だ。
今日の彼女の装いは、白の柔らかいサマーニットに、ベージュのロングフレアスカート。肩から小ぶりな革のショルダーバッグを下げ、ツバの広い麦わら帽子を深めにかぶっている。
学校でのきっちりとした制服姿とは異なり、どこか大人っぽく、けれどどこか可憐で涼しげな私服姿。
「……なに走らせているのよ、橘くん。前を見て歩きなさい」
並んで歩く涼香が、帽子を軽く押さえながら上目遣いに樹を睨んできた。
「いや……あまりにも先輩が綺麗すぎて、目のやり場に困っていまして」
「~っ! くだらない冗談を言っていないで、早く行くわよ!」
涼香は真っ赤になって早足で先を行こうとしたが、樹の長身の歩幅には勝てず、すぐにまた横に並んでしまう。
二人がやってきたのは、青楓荘から徒歩十分ほどにある大型スーパー『フレッシュマーケット』だった。
「さて……まずは野菜コーナーからね」
店内に入ると、涼香は手際よく買い物カートを引き寄せた。樹がすかさず「僕が持ちますよ」とカートを受け取ると、涼香は一瞬意外そうに目を丸くしたのち、嬉しそうに口元をゆるめた。
「ふん、手慣れているわね。……感謝するわ」
野菜売り場に足を踏み入れると、涼香の目は一変してプロのそれに変わった。
キャベツのズッシリとした重みを確かめ、トマトのヘタの青々しさを吟味し、ほうれん草の葉の張りをチェックしていく。
「橘くん、今週の平日は何が食べたいかしら?」
「え? 僕の希望を聞いてくれるんですか?」
「当然でしょう。あなたに作ってあげるのだから、嫌いなものを出しても残されたら困るもの」
涼香は当然のように言い放った。その自然な言葉の裏にある『あなたのために作る』という事実に、樹の胸がじんわりと熱くなる。
「うーん……じゃあ、ハンバーグとか……?」
「ハンバーグね。いいわ、和風のおろしハンバーグにしましょう。豆腐を混ぜてヘルシーにしてあげる」
「洋風のデミグラスじゃなくて和風ですか?」
「夜遅くに食べるのだから、胃に優しい方がいいでしょう? あなたの健康管理も私の仕事……じゃなくて、配慮なんだから」
言い直す涼香の耳たぶが、またほんのりと赤くなっている。
(健康管理って言おうとしたな……可愛すぎるだろ)
「じゃあ、挽肉と大根、ポン酢を買いましょう。……あ、そこの大根取ってちょうだい」
「はい、これですか?」
「ええ。ずっしり重くて、葉っぱが瑞々しいものが良い大根なのよ。覚えておきなさい」
「勉強になります、涼香先生」
「先生は余計よ」
そんな夫婦のような、あるいは仲の良い姉弟のようなやり取りをしながら、二人はカゴにどんどん食材を放り込んでいった。
肉コーナー、魚コーナー、調味料エリア。涼香が指示を出し、樹がカートを押して商品を運ぶ。その呼吸の合い方は、まるで何年も一緒に暮らしているかのようだった。
だが、幸せな買い物タイムに、突如として危機が訪れる。
「あ、見て! あの服可愛くない?」
「ほんとだー! 買い出し終わったら見に行こうよ!」
鮮魚コーナーの向こう側から、聞き覚えのある甲高い女子生徒たちの声が聞こえてきた。
(っ……! この声、うちのクラスの女子……!?)
樹の背中に冷や汗が流れた。
聖華高校の生徒がよく利用するエリアだとは分かっていたが、まさか日曜日のこの時間帯に鉢合わせるとは。
もし、学校一の『氷山姫』である夏目先輩と、地味な高一男子の自分が私服で買い物カゴを囲んでいる姿を見られたら――明日から学校中で大騒ぎになり、平穏な日常は一瞬で崩壊する。
「先輩、やばいです……! うちのクラスの――」
「言われなくても分かっているわ。……こっちに来なさい!」
涼香は咄嗟に樹の腕を掴むと、近くの大型陳列棚(スナック菓子コーナー)の陰へと樹を引っ張り込んだ。
「うわっ……!」
狭い棚と棚の隙間。
二人の距離が、一瞬でゼロになった。
樹の胸元に、涼香の華奢な体がすっぽりと収まる格好になる。
ふわっと、彼女の髪から漂う白茶の甘い香りと、サマーニット越しに伝わる柔らかで温かい體溫。涼香の息遣いまでが、樹の首筋に直接吹きかかってくる。
「……しーっ。静かにしなさい」
涼香は樹の胸に手を当て、上目遣いでじっと樹を見つめながら、人差し指を自分の唇に当てた。
その琥珀色の瞳は、驚きと極度の緊張で潤んでいる。
(か、近すぎる……!!)
樹の心臓が、まるで鐘のように猛烈な勢いで拍動し始めた。
ドク、ドク、ドクと、胸の鼓動がダイレクトに涼香の手に伝わっているはずだ。
「……ねえ、橘くん」
涼香が、蚊の鳴くような極小の声で囁いてくる。
「なに……ですか?」
「心臓……すごく速いわよ」
「そ、そりゃあ……こんな至近距離に先輩がいたら、誰だってそうなりますよ」
「……バカ。私も……同じよ」
「え……?」
樹が驚いて見下ろすと、涼香の頬は朱を通り越して真っ赤に染まっていた。
彼女の胸元からも、小さく、けれど激しい鼓動が伝わってくる。
外を女子生徒たちが通り過ぎていく足音が聞こえる。
「全然いなーい。あっちのレジ行こうよー」
「うん、そうしよー」
声が遠ざかり、安全が確保された。
しかし、二人はしばらくの間、棚の陰でお互いの體溫と鼓動を感じ合いながら、動くことができなかった。
「……もう、行ったみたいですね」
「……ええ、そうね」
ゆっくりと身体を離す二人。
涼香は帽子を目深にかぶり直し、気まずそうに咳払いをした。
「……行くわよ。アイスクリームが溶けちゃうわ」
「アイスも買うんですか?」
「……ご褒美よ。買い出しに付き合ってくれた、あなたへの……それと、私の分」
「ふふ、了解です」
気まずさを隠すように早足でレジに向かう涼香の背中を追いかけながら、樹は胸の奥の甘い熱を噛み締めていた。
レジで清算を済ませると、保冷バッグと大きなレジ袋二つ分の重み。
樹が「全部持ちますよ」と両手の荷物を引き受けると、涼香は少し申し訳なさそうに、けれどとても嬉しそうに樹の袖口をちょこんと掴んだ。
「……重かったら、半分持ちなさいね」
「平気です。これくらい、先輩の美味しい手料理に比べたら軽いもんですよ」
「……調子の良いことばかり言って」
夕暮れ時の帰り道。
オレンジ色の影が長く伸びる街頭を、二人は肩を並べて歩いていく。
誰にも言えない秘密の関係。
けれど確実に、二人の距離は『ただのお隣さん』を超えて、不可逆な領域へと踏み出していたのだった。




