週末のベランダ越しの限界と、小さな訪問者
聖華高校の多忙な一週間が終わり、待ちに待った週末――土曜日がやってきた。
平日、學校では『他人』として徹底的に距離を保ち、夜になるとベランダ越しに手作りのおかずをやり取りする。そんな歪で、けれどどこか胸が躍るような二人の日常は、すっかり定着しつつあった。
(そろそろ、掃除するか……)
正午過ぎ。橘樹は、部屋の真ん中に散らばっていた本や文房具をデスクに片付け始めた。
一人の休日はいつもなら昼過ぎまで惰眠を貪り、適当なカップ麵で済ませるところだ。しかし、この一週間で涼香先輩のプロ級の手料理に胃袋をすっかり甘やかされた樹の身体は、すでに「まともな飯」を求めて悲鳴を上げていた。
その時だった。
ピンポーン、と。
静かな部屋に、玄關のインターホンが鳴り響いた。
(ん……? 宅配便か何かか?)
特に買い物をした記憶もない樹は、首をかしげながら廊下を歩き、玄關のドアを開けた。
「はい――」
「……遅いわよ、橘くん」
そこに立っていたのは、予想だにしない人物だった。
白のフレンチスリーブのブラウスに、淡いサックスブルーのフレアスカート。腰まで伸びた黒髪はハーフアップに結ばれ、涼しげで上品な印象を与える私服姿。
両手には、ズッシリとした大きめの保冷バッグを抱えた夏目涼香が、少し不機嫌そうに唇を尖らせて立っていた。
「涼香……先輩!? どうしてここに……!?」
「どうしてって……インターホンを押したからに決まっているでしょう」
「いや、それは分かりますけど! なんで僕の部屋の前に……」
「立ち話も何だから、入りなさい」
「えっ、ちょ――」
樹の制止も聞かず、涼香は慣れた手つきで自分の靴を揃えて脱ぐと、そのまま躊躇なくワンルームの部屋へと上がってきた。
ふわっと、彼女が歩くたびに朝露の混じった白茶のような甘い香りが部屋の空気を満たしていく。
「……相変わらず、必要最低限のものしかない部屋ね」
涼香は部屋の中を見渡し、呆れたように小さく息を吐いた。
「ベランダ越しで渡すのは、さすがに限界があるわ。大きなお皿や重いタッパーを落としたら危険でしょう? だから、今日からは直接届けることにしたの」
「いやいや、直接って……先輩、一応ここ男子の部屋ですよ!?」
「だから何かしら?」
涼香は琥珀色の瞳をまっすぐに樹に向け、首をかしげた。
「あなた、私に何か不埒なことをするつもりなの?」
「するわけないでしょう!」
「なら問題ないわ」
あっさりとそう言い放つと、涼香は小さなローテーブルの上に保冷バッグを置き、中から手際よく料理の入った容器を取り出し始めた。
「ほら、ボサッとしていないで箸とコップを用意しなさい。今日の昼食は、少し力作なんだから」
「……はい」
涼香の圧倒的なペースに呑まれ、樹は大人しくキッチンへ向かった。
心臓が、耳の奥でうるさいほどドクドクと拍動している。
(マジかよ……あの氷山先輩が、俺の部屋で昼飯の準備をしてる……)
学校の男子生徒たちが知ったら、狂乱して失神するかもしれない光景だ。
樹は深呼吸をして心を落ち着かせると、箸と冷茶を注いだコップを持ってテーブルに戻った。
テーブルの上に並べられていたのは――息をのむほど美しい『和風ワンプレートランチ』だった。
ツヤツヤと輝く鮭の照り焼きに、彩り鮮やかなだし巻き卵、ほうれん草の胡麻和え。そして小さな小鉢には綺麗な冷奴。中央には、俵型に握られたツヤツヤのおにぎりが二つ並んでいる。
「土曜日の昼くらい、ちゃんとした和食を食べないとダメよ。平日はどうしても油物が足りなくなったりするから、バランスを整えたの」
涼香は自慢げに胸を張り、反対側にちょこんと正座した。
「……いただきます」
樹は思わず居住まいを正し、手を合わせた。
まずは俵型のおにぎりを手に取り、一口かじる。ふんわりと握られたお米の中から、絶妙な塩加減と香ばしいおかかの風味が口いっぱいに広がった。
「……美味い」
「当たり前でしょう。お米の炊き加減も、塩の振り方も完璧だもの」
続いて、鮭の照り焼きを口に運ぶ。皮目はパリッと香ばしく、中の身はふっくらとジューシーで、甘辛いタレがお米の旨味を極限まで引き立てていた。
「……最高です。正直、今まで食べた和食の中で一番美味しいかもしれないです」
「……大げさよ」
樹が心からの言葉を口にすると、涼香は照れ隠しのように視線を逸らした。しかし、その耳たぶが朱色に染まっていくのを樹は見逃さなかった。
「先輩は食べないんですか?」
「私は……さっき自分の部屋で食べたわ」
「え? 一緒に食べないんですか?」
「っ……!」
涼香の身体がピクッと跳ねた。
「い、一緒にって……私が作ってあげたんだから、あなたは一人で食べればいいでしょう」
「でも、せっかく僕の部屋にいるんだし、一人で食べさせるのも悪いかなって。……それに、先輩と一緒に食べた方が、もっと美味しいと思いますし」
「~っ! 恥ずかし気もなく、よくそんなセリフが言えるわね……!」
涼香は両手で顔を覆い、蚊の鳴くような声で呟いた。
だが、完全には拒絶しないあたり、彼女自身も樹の部屋に来た理由がただ「料理を届けるため」だけではないことを物語っていた。
「……じゃあ、お茶だけいただくわ」
涼香はそっと手を開き、樹が用意した冷茶のコップを手に取った。
そして、美味しそうに手料理を平らげていく樹の姿を、どこか満足そうに、愛おしそうな瞳で見つめていた。
「……ねえ、橘くん」
「はい?」
おにぎりを完食した樹が顔を上げると、涼香は膝の上で細い指を弄くりながら、小さな声で切り出した。
「週末……もし予定がないなら。来週の平日の買い出し、手伝ってくれないかしら?」
「買い出し、ですか?」
「ええ。あなたに作ってあげる分の食材も増えたから、一人だと少し重くて……。もちろん、嫌なら無理にとは言わないけれど」
不安そうに上目遣いでこちらを伺う涼香の姿に、樹の胸がギュッと締め付けられた。
『完璧な氷山姫』が、自分にだけ見せる少し頼りなげな素顔。
「嫌なわけないじゃないですか」
樹は優しく微笑み、力強く頷いた。
「喜んでお供しますよ、涼香先輩。荷物持ちなら任せてください」
「……ほんと?」
「本当です。むしろ、いつも美味しいご飯を作ってもらってるお返しをさせてください」
「……ふん、調子の良い奴」
涼香はぷいっと橫を向いたが、その唇の端は隠しきれないほど嬉しそうに緩んでいた。
こうして、二人だけの週末の時間が動き始めた。
部屋に広がる美味しい手料理の匂いと、甘く焦れったい二人の空気。
橘樹が『完璧な先輩』にどこまでも甘やかされ、ダメ人間へと変わっていくまでのカウントダウンは、着々と進んでいたのだった。




