秘密の報酬と、二人の食卓
聖華高校での一日が終わり、夜の帳が街を優しく包み込んでいく。
自室のデスクに座り、教科書を開いていた橘樹は、ふとペンを置いた。壁に掛けられた時計の針は、すでに夜の八時を回っている。
(……今日の昼間のは、心臓に悪かったな)
樹は小さく息を吐き、自分の前髪をかき上げた。
昼休みの廊下。すれ違いざまに目線だけで交わした、あの誰も気づかなかった『氷山姫』の秘密の微笑み。思い返すだけで、胸の奥がじんわりと熱くなるような、妙な緊張感が蘇ってくる。
学校中の男子生徒たちが憧れる高嶺の花。誰も寄せ付けない冷徹な美貌を持つ夏目涼香先輩。
そんな彼女が、自分にだけ見せたあの悪戯っぽい瞳。
(『他人のフリをしなさい』って言ったのは先輩の方なのに……あんな合図送られたら、意識しない方が無理だろ)
樹は頭を振って雑念を払うと、喉の渇きを覚えて立ち上がった。
キッチンへ向かい、コップに冷水を注いで一気に飲み干す。そのまま乾かしてある洗濯物を回収しようと、ベランダへ続くサッシの鍵を外した。
ガラガラ、とサッシを開けると、ひんやりとした夜風が頬を撫でる。
そして次の瞬間――
「……遅いわね、橘くん」
暗がりの中から、鈴を転がすような涼やかな声が降ってきた。
「うわっ!?」
樹は思わず声を漏らして後ずさった。
隣の302号室のベランダ。隔て板のすぐ横に、いつの間にか涼香が立っていたのだ。
今日の彼女は、白のシンプルなニットに紺色のロングスカートという、清楚かつどこか家庭的な私服姿だった。まとめた黒髪からは甘いシャンプーの香りが漂い、月光に照らされた琥珀色の瞳が、どこか不満そうに樹を見つめている。
「せ、先輩!? いつからそこに……?」
「十分前からよ。あなたがベランダに出てくるのを待っていたの」
「十分前って……言ってくれればすぐ出たのに。夜風は冷えますよ?」
「別に、寒くなんてないわ。それに、勝手に待っていたのは私だから」
涼香はぷいっと横を向いたが、その鼻先がほんのりと赤くなっているのを樹は見逃さなかった。風に当たっていたからか、それとも照れ隠しか。
「それで……何の用ですか? もしかして、また服が飛んじゃいました?」
「違うわよ。……これを受け取りなさい」
涼香は手元に抱えていた大きな布包みを、アクリル板の隙間からこちらへ差し出してきた。
ズッシリとした重みと、そこから漏れ出るたまらなく芳醇な匂い。熟成された醤油と生姜、そして香ばしい出汁の香りが、樹の鼻腔を強力に刺激する。
「これって……もしかして」
「今日の夕飯の『余り』よ。昨日の夜、あなたが『もっと食べたい』なんて調子の良いことを言っていたでしょう? だから、ついでに作ってあげたの」
「ついで、にしては……ものすごく大きくて重い気がするんですけど」
「黙って受け取りなさい!」
涼香に押し付けられるようにして包みを受け取ると、中には昨日よりも一回り大きな二段重ねの大きなタッパーが入っていた。フタ越しにも伝わってくる温もりが、樹の手のひらを温める。
「……開けてみてもいいですか?」
「好きにしなさい。ただし、味の文句は一切受け付けないわよ」
樹はベランダの手すりに包みを置き、慎重に結び目を解いた。
フタを開けた瞬間、ふわっと白い湯気が立ち上る。
上の段には、照り煮にされた大きめの豚の角煮と、味がしっかりと染み込んでいそうな煮卵、そして色鮮やかなインゲンが美しく配置されていた。
下の段には、ふっくらと炊き上げられた白米がぎっしりと詰まっている。
「……すごい」
樹は思わず絶句した。
一人暮らしの男子高校生にとって、これほど魅力的な光景が他にあるだろうか。コンビニの微波便當やインスタントラーメンとは比べものにならない、圧倒的な「手作り」の温もりと贅沢感。
「どうかしら? 豚の角煮は下茹でをしっかりして、脂っこさを抑えてあるわ。隠し味にほんの少し蜂蜜を使っているけれど……あなたの口に合うかしら」
涼香は腕を組みながら、チラチラとこちらの反応を伺っている。その瞳には、「どう? 早く食べなさいよ」という期待の色が隠しきれずに滲み出ていた。
「食べる前から分かります。絶対に美味しいです、これ」
「ふん……口だけならなんとでも言えるわ」
「本当ですよ。あ、そうだ。先輩」
樹はふと思い立ったように、涼香の目を見つめた。
「昼間のことなんですけど」
「……昼間?」
涼香の眉がピクリと跳ねた。
「廊下ですれ違った時……目線で合図してくれましたよね? 『他人のフリをする』って約束だったのに」
「っ……!」
一瞬で、涼香の顔がゆで蛸のように真っ赤に染まった。
彼女は咄嗟に両手で自分の頬を押さえ、狼狽えたように視線を泳がせる。
「な、なにを言っているのか分からわね! 私がいつ、あなたに合図なんて……!」
「微笑んでくれたじゃないですか。一瞬だけ」
「し、してないわよ! あれはただの……そう、目がゴミが入って瞬きをしただけよ! 勘違いしないでちょうだい!」
「目がゴミですか。随分とタイミングの良いゴミですね」
「うぐっ……!」
正論で追い詰められ、涼香は言い返せずに口をぐぬぬと結んだ。
学校での完璧な『氷山姫』の威嚴はどこへやら、今の彼女は自分のポカを指摘されて必死に誤魔化そうとする、年相応の可愛らしい少女そのものだった。
「……だって」
小さな、消え入りそうな声が涼香の口から漏れた。
「だって……あなたが、あまりにもつまらなさそうな顔で廊下を歩いているから。……少しだけ、驚かせてやろうと思っただけよ」
「驚かされたのは僕の心臓ですよ。クラスの男子にバレたらどうするんですか」
「バレないようにやったわよ! 私の完璧なコントロールを舐めないで」
胸を張る涼香だったが、その耳たぶは赤くなったままだ。樹はそんな彼女の姿を見て、胸の奥が温かいもので満たされていくのを感じた。
「……ありがとうございます、先輩」
「なによ、急に」
「昼間の合図も嬉しかったですし……この角煮も、本当に嬉しいです」
樹は心からの感謝を込めて、涼香に向かって微笑んだ。
「一人で食べるコンビニ飯って、やっぱりどこか味気なかったんですよね。でも、先輩が作ってくれたご飯があると、家に帰るのが楽しみになります」
「……っ」
涼香は息をのんだ。
琥珀色の瞳を大きく見開き、樹の言葉を反芻するように固まる。やがて、彼女は気まずそうに視線を下に落とし、小さく肩をすぼめた。
「……大げさよ。たかが角煮くらいで」
「たかがじゃないですよ。僕にとっては最高の栄養補給です」
「……そう。なら、しっかり残さず食べなさい」
涼香はそっぽを向いたが、その声は先ほどまでのツンとしたものとは違い、どこか柔らかく、嬉しそうに弾んでいた。
「明日も……もし余ったら、作ってきてあげるわ」
「え? 本当ですか?」
「ええ。ただし条件があるわ」
涼香は再び樹の方を向き、人差し指をスッと立てた。
「一つ、偏食をやめること。二つ、私の料理を残さず食べること。そして三つ……」
彼女はそこで言葉を切り、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。
「……学校で他人のフリをしている分、ここでは……ちゃんと私と話すこと。いいわね?」
それは、孤高の『氷山姫』が初めて見せた、素直な甘えの言葉だった。
樹は一瞬驚いたものの、すぐに破顔した。
「了解です、涼香先輩。喜んで」
「……呼び捨ては、まだダメよ。先輩を付けなさい」
「言っていませんよ? 『涼香先輩』って言いました」
「あ……もう、紛らわしいわね!」
夜風が二人の間を吹き抜けていく。
薄いアクリル板一枚で隔てられたベランダで、二人の笑い声が静かな夜空に溶けていった。
この日を境に、二人の『夕飯差入れ協定』は正式に結ばれた。
そして橘樹は、完璧で美しいお隣さんによって、少しずつ、けれど確実に――至高の『甘やかし』という名の沼へとハマっていくのだった。




