廊下のすれ違いと、秘密の合図
聖華高校の昼休み。
にぎやかな歓声と廊下を走る足音が、校舎中に響き渡っていた。
「おい橘、購買の焼きそばパン買えたか?」
教室で自分の席に座り、コンビニのサンドイッチをかじっていた橘樹に、友人の友樹が声をかけてきた。
「無理だった。相変わらずあそこは戦場だな」
「だよなー。つかお前、最近弁当持ってこなくなったりサンドイッチだけだったり、食生活ヤバくないか?」
「まあ、夜にしっかり食べてるから平気だよ」
樹は苦笑しながら誤魔化したが、頭の裏には昨日の夜、ベランダ越しに涼香先輩からもらった出汁巻き卵の味が鮮明に残っていた。
(あの味が忘れられないんだよな……)
そんなことを考えていると、廊下のほうが急にざわつき始めた。
女子生徒たちのひそひそ話と、男子生徒たちの熱い視線が集まる理由――それはすぐに分かった。
「あ、夏目先輩だ……」
「今日も綺麗だなあ……完璧すぎるだろ……」
廊下を歩いてきたのは、夏目涼香だった。
背筋をぴんと伸ばし、洗練された動作で書類のファイルを抱えて歩く姿は、まさに校内の有名人『氷山姫』そのもの。彼女が通るだけで、廊下の空気が一段冷涼で華やかなものに変わるかのようだった。
樹のクラスの男子たちも、窓越しに彼女の姿をうっとりと眺めている。
(やっぱり、学校だと全然雰囲気違うな……)
昨日の夜、ゆるゆるの部屋着でお腹を鳴らしていた少女と同一人物とは到底思えない。
樹は周囲の生徒に混ざって、静かに彼女の横顔を目で追った。
約束通り、学校では『ただの赤の他人』だ。
樹は余計な目立ち方をしないよう、そのまま視線を逸らしてサンドイッチの袋を片付けようとした。
その時だった。
書類を抱えて教室の前を通り過ぎようとした涼香の足取りが、ほんの一瞬だけ緩んだ。
彼女は前を向いたまま、誰にも気づかれないような極めて自然な動作で――ふと、窓際に座る樹の方へと琥珀色の視線を走らせた。
(え……?)
目が合った。
ほんの零点一秒にも満たない瞬間。
涼香はほんの少しだけ口角を上げ、樹にしか分からないような、小さく悪戯っぽい微笑みを浮かべた。
そして、すぐにいつもの冷徹な『氷山姫』の表情に戻り、何事もなかったかのように廊下の奥へと去っていった。
「……っ!」
樹の心臓が、まるで不意打ちを食らったかのように大きく跳ね跳ねた。
手にしたサンドイッチの袋を強く握りしめてしまう。
(な、なんだ今の……!?)
「おい橘? 顔赤いぞ、どうかしたのか?」
友人に肩を叩かれ、樹は慌てて顔を伏せた。
「な、なんでもない! ちょっと喉が詰まっただけだ」
「なんだよそれ。ほら、お茶飲めよ」
「……サンキュ」
お茶を飲み干しながら、樹は深く息を吐き出した。
(他人のフリをするんじゃなかったのかよ……あんなの反則だろ……)
クラスの男子たちが「今日も夏目先輩は冷たかったな」「それがいいんじゃないか」などと呑気に語り合っている横で、樹は一人、優越感と心苦しさが入り混じった不思議な感情に包まれていた。
あの誰も寄せ付けない『氷山姫』が、自分にだけ見せた秘密の微笑み。
学校中の誰も知らない彼女の素顔と、自分たちだけの密かな繋がりを実感し、樹の胸の奥は甘い熱で満たされていくのだった。




