ベランダの夜風と、秘密の約束
翌日の夜、十時すぎ。
橘樹は綺麗に洗って乾かしたタッパーを手に、ベランダへと出た。
夜風が心地よく頬を撫でる。ふと隣の302号室に目をやると、部屋の明かりが漏れており、ベランダのサッシが少しだけ開いていた。
(……いるのかな)
樹は少し迷った末、アクリル板の近くで短く声をかけた。
「夏目先輩、起きてますか?」
一秒、二秒。
返事がないかと思った矢先、サッシがスーッと開き、ゆるい部屋着姿の夏目涼香が顔を出した。お団子にまとめた黒髪から落ちた後れ毛が、夜風に揺れている。
「……橘くん? こんな夜遅くに何?」
「タッパー、綺麗に洗ったので返しに来ました。昨日は本当にごちそうさまでした」
樹が隔て板の隙間からタッパーを差し出すと、涼香は「わざわざどうも」と素っ気なくそれを受け取った。
だが、タッパーを受け取った後も、彼女は部屋に戻ろうとせず、ベランダの手すりにそっと両手を置いた。
「……美味しかった?」
夜空を見上げたまま、涼香がぽつりと呟く。
「めちゃくちゃ美味しかったです。出汁巻き卵も、筑前煮の味の染み込み具合も最高でした。……正直、もっと食べたかったです」
「ふん、調子の良いこと言って」
涼香は鼻を鳴らしたが、その口元が満足そうにわずかに緩んだのを樹は見逃さなかった。
「本当ですよ。あんなに美味しい手料理を食べたの、久しぶりでしたから」
樹のその言葉に、涼香はふと視線を落とした。
「……あなた、両親は?」
「海外赴任中です。だから基本、この部屋でずっと一人暮らしなんですよ。だから毎日の飯はコンビニかインスタントばかりで」
「……そう」
涼香は何かを思い出すように、遠い目をした。
彼女の家は裕福で、何不自由ない生活を送っていると噂されている。だが、今の彼女の背中には、どこか寂しげな影が落とされていた。
「私の家も……両親は忙しくて、家にいることは滅多にないわ。家政婦さんが食事を用意してくれるけれど……大きなテーブルで一人で食べる食事は、あまり味がしないの」
「先輩……」
「だから、料理を覚えたのよ。自分で作ったものなら、少しは食べようって思えるから。……まあ、結局作りすぎて余らせちゃうんだけどね」
涼香は自嘲気味に笑った。
学校では『完璧で隙のない氷山姫』として崇められている彼女も、ここではただの寂しがり屋な一人の女の子なのだと、樹は痛感した。
「じゃあ……ちょうどいいですね」
「え?」
樹はベランダの手すりに肘を預け、涼香に向かってニッと笑いかけた。
「先輩が作りすぎた料理は、僕が全部引き受けますよ。僕はおいしい手料理が食べられて嬉しいし、先輩も残さずに済む。お互いウィ論じゃないですか」
「……っ」
涼香は目を見開き、暗がりの中でもわかるほど頬を朱に染めた。
「な、なに言ってるのよバカ! それじゃまるで……私が毎日あなたのご飯を作ってあげるみたいじゃない!」
「駄目ですか?」
「だ、駄目に決まっているでしょう! 私はあなたの母親でもお手伝いさんでもないのよ!?」
慌てて抗議する涼香の姿が可笑しくて、樹は思わず吹き出してしまった。
「くすっ、冗談ですって。無理にとは言いませんよ。でも、もしまた余ったら、いつでも声をかけてください」
「……調子の良い奴」
涼香はぷいっと横を向いたが、どこか救われたような、柔らかい表情を浮かべていた。
「……あ、そうだ。橘くん」
「はい?」
部屋に戻りかけた涼香が、足を止めて振り向いた。琥珀色の瞳が、真剣な光を帯びている。
「学校では……今まで通り、他人のフリをしなさいね」
「ええ、分かってます。学校で僕たちが仲良くしてたら、先輩のファンクラブに命を狙われそうですからね」
「そういう理由じゃないけれど……まあ、いいわ」
涼香は少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「これは、私とあなたの……秘密の関係なんだから」
「……!」
その言葉と、夜風に乗って届いた彼女の甘い微笑みに、樹の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
「じゃあね、橘くん。おやすみなさい」
「……おやすみなさい、夏目先輩」
サッシが閉まり、302号室のベランダから人影が消えた。
一人ベランダに残された樹は、自分の胸に手を当て、苦笑いを浮かべた。
(秘密の関係、か……。そんな顔で言われたら、意識しない方が無理だろ)
静かな夜の空気の中、樹の胸の奥で、確かに新しい感情の芽が動き始めていた。




