氷山姫の特製タッパーと、ベランダ夜食協定
「……これ、本当に夏目先輩が作ったんですか?」
橘樹は、手に持ったずっしりと重いタッパーを見つめ、思わず声を漏らした。
高級感のあるガラス製のフタ越しに見えるのは、料亭の小鉢と言われても信じてしまうほど美しく巻かれた出汁巻き卵と、しっかりと味が染み込んだツヤのある筑前煮だった。
「なによ、失礼ね。私を誰だと思っているの?」
玄関の前に立つ夏目涼香は、胸を張りながら不機嫌そうに鼻を鳴らした。
隙のない制服姿のままだが、その琥珀色の瞳は「どう? すごいでしょう」と言いたげに小さく揺れている。
「あまりにも綺麗すぎるので……お店で買ってきたのかなと」
「……私は買い食いなんて滅多にしないわ。料理くらい、完璧にこなせて当然でしょう」
涼香はぷいっと横を向いた。しかし、その耳たぶがほんのりと赤くなっているのを、樹の鋭い観察眼は見逃さなかった。
(ふふ、褒められて嬉しい癖に、相変わらず素直じゃないな……)
樹は苦笑しながら、タッパーを持ち直した。
「ありがとうございます。昨日の焼きうどんのお礼にしては、豪華すぎますけど……」
「言ったでしょう、借りを作るのが嫌いなの」
涼香は腕を組み、さも当然といった口調で言葉を続ける。
「それに……あなた、一人暮らしだからって絶対碌なものを食べていないでしょう? 昨日の焼きうどんも味は悪くなかったけれど野菜が足りていなかったわ。成長期の高校生がそんな偏った食生活をしていては駄目よ」
「うぐっ……」
図星を突かれ、樹は思わず口ごもった。
「だから、これは余り物。別にあなたのために特別に作ったわけじゃないわ。……明日、洗って返しなさい」
「わかりました。……あの、せっかくだから今食べてもいいですか?」
「え?」
涼香が驚いたように目を丸くする。
「冷めても美味しいと思いますけど、出来立ての温かいうちに食べたくて。……先輩も、味の感想、聞きたくないですか?」
「別に……あなたがどう思おうと、私の料理が完璧であることに変わりはないわ」
つれない返事とは裏腹に、涼香の足は玄関から一歩も動こうとしない。視線も心なしかタッパーに注がれている。
「じゃあ、ちょっと失礼して」
樹は玄関の上がり框に腰掛け、フタを開けた。
ふわっと、上品な出汁と甘辛い醤油の香りが玄関いっぱいに広がる。
箸を取り出し、まずは黄金色に輝く出汁巻き卵を一口。
「――っ!?」
ジュワッと、口の中で溢れ出す圧倒的な旨味。甘すぎず、塩辛すぎず、食感もまるで雲のようにフワフワだ。
「……どうかしら?」
上から降ってくる涼香の声には、隠しきれない緊張感が混ざっていた。
「……ヤバいです」
「ヤバい……? 雑な表現ね。美味しくなかったの?」
「逆です。美味しすぎて言葉が出ないです。正直、今まで食べた出汁巻き卵の中で一番美味しいです。料亭レベルですよこれ……」
「っ……!」
涼香の肩がビクッと跳ねた。
咄嗟に手で口元を覆ったが、その隙間から覗く頬が、夕焼けのように真っ赤に染まっていく。
「べ、別に……それくらい普通よ。基本に忠実に作っただけだもの!」
「いや、この焼き加減は普通じゃないです。先輩、本当にすごいです」
「もういいわよっ! 褒め殺しなさい!」
耐えきれなくなった涼香は、パッと背を向けた。
「器は明日! 学校じゃなくて、帰ってからベランダ越しに返しなさい! いいわね!?」
「あ、はい。わかりました」
「じゃあね!」
バタン! と鄰の302号室のドアが少し強めに閉まる音が廊下に響き渡った。
一人残された玄関で、樹は筑前煮を一口食べた。根菜にしっかりと味が染み込んでいて、これまた絶品だった。
「……素直じゃないけど、本当に優しい人だな」
殺風景だった自分の部屋を見渡し、手に持った温かいタッパーを見つめる。
(……あ、でも待てよ?)
樹はふと気づいた。
「ベランダ越しに返せってことは……明日もまた、夜に話すってことか?」
一口食べるごとに、自分の中の何かが少しずつ変わっていくような気がした。
こうして、二人の「ベランダ越しの夜食協定」は、靜かに、そして確実にその第一歩を踏み出したのだった——。




