深夜のベランダと、ベランダ越しに香る醤油の匂い
午前零時を回った頃。
「……あ、やば」
橘樹は、ベランダの物干し竿を見上げて思わず声を漏らした。
先ほどまで吹いていた強風のせいか、夕方干しておいたお気に入りのパーカーが消えている。慌てて下を覗き込んだが、落ちてはいない。よく見ると、薄いアクリル板一枚で隔てられた隣――302号室のベランダの物干し竿に、見事に引っかかっていた。
(マジか……取りに行くにも、もう夜中だしな)
隣に住んでいるのは、聖華高校で誰もが知る『氷山姫』こと、一学年上の夏目涼香先輩だ。
普段は学校でも廊下ですれ違う程度で、挨拶くらいしか交わしたことがない。完璧主義で冷徹と噂される彼女の部屋に、深夜に「服を取らせてください」と突撃するのは流石に気が引ける。
(明日の朝、謝って取らせてもらうか……)
そう諦めかけたその時だった。
サ、とベランダのカーテンが開く音がした。
続いて、カチャリとサッシが開く音。
「……ん」
薄暗いベランダに姿を現したのは、いつも完璧に制服を着こなしている涼香先輩だった。
だが、今の彼女は少し様子が違う。大きなサイズのダボッとした部屋着に身を包み、髪はゆるくお団子にまとめられている。そして何より――彼女の小さなお腹から、
ぐぅぅぅ……。
と、非常に可愛らしい音が響いた。
「……っ!?」
涼香は真っ赤になって自分の腹部を押さえ、慌てて周囲を見回した。そして、アクリル板の隙間からこちらを見つめていた樹と、バッチリ目が合ってしまう。
「……橘、くん?」
「……あ、こんばんは、夏目先輩」
静寂が二人を包み込む。
涼香の顔は、夜の暗がりでもわかるほどみるみるうちに真っ赤に染まっていった。普段の凛とした氷山姫の影はどこにもない。
「今のは……違うの。今のはただの……!」
「聞かなかったことにします。……あ、それよりすみません、僕のパーカーがそっちのベランダに飛んじゃってて」
樹が申し訳なさそうに指差すと、涼香は自分の物干し竿に引っかかっている服に気づき、ハッとしたように息をのんだ。
「あ……これ、橘くんのだったのね。今取るわ」
涼香は手を伸ばしてパーカーを取り、隔て板の隙間から樹に手渡してくれた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いいえ。……じゃあ、私はこれで」
恥ずかしさの極みに達したのか、涼香が逃げるように部屋に戻ろうとしたその時。
ぐぅぅぅ……。
二度目の容赦ない悲鳴が、彼女のお腹から鳴り響いた。涼香の動きが完全にフリーズする。
「……先輩」
「な、なに……? 嘲笑うつもりなら許さないわよ」
涼香は必死に睨みつけてくるが、潤んだ瞳のせいで全く怖くない。
樹は苦笑しながら、手元に持っていたお盆を少し持ち上げた。そこには、樹が自分用に作ったばかりの、香ばしい醤油とごま油の匂いが漂う『夜食の特製焼きうどん』が乗っていた。
「晩ご飯、足りなかったんですか?」
「……晩ご飯は、サラダしか食べてないわ。ダイエット中だから」
「あんなにスタイル良いのにですか? それに、夜中にそんなお腹鳴らしてたら体に悪いですよ」
「余計なお世話よ……!」
樹は少し考えた後、キッチンに戻って小鉢と箸を取り出し、焼きうどんを半分に分けた。そして、ベランダの柵越しにそれを涼香に差し出した。
「これ、作りすぎちゃったんで、良ければどうぞ。毒とか入ってないですから」
「……っ」
涼香は差し出された小鉢と、そこから立ち上るたまらない匂いを交互に見つめた。ゴクリと喉が鳴る音が聞こえる。
「……私は、夜食なんて食べない主義なの」
「冷めると美味しくないですよ。一口だけでもどうですか?」
「……一口だけだからね。本当に、一口だけ」
葛藤の末、欲望に負けた涼香は小鉢を受け取り、箸で一筋の麺を口に運んだ。
次の瞬間、彼女の琥珀色の瞳が大きく見開かれた。
「……!?」
「どうですか?」
「……これ、あなたが作ったの?」
「ええ。まあ、男の一人暮らしのテキトーな夜食ですけど」
涼香は無言のまま、二口目、三口目と勢いよく麺を口に運び始めた。一口だけと言っていたのはどこへやら、あっという間に小鉢は空になってしまった。
小鉢を綺麗に平らげた涼香は、はっと我に返り、耳まで真っ赤にして小鉢を樹に返した。
「……まあまあね。悪くないわ」
「それは良かったです」
「……ほんの少し、味が濃かったけれど」
「次は少し薄味にしますね」
「! 別に、次なんて頼んでないわよ!」
慌てて否定する涼香だったが、その視線はどこか名残惜しそうに樹のキッチンの方を向いていた。
「ふふ、じゃあ器ありがとうございました。おやすみなさい、夏目先輩」
「……おやすみなさい、橘くん」
部屋に戻っていく涼香の背中を見送りながら、樹はクスッと笑った。
(学校の『氷山姫』も、案外普通の女の子なんだな)
翌日の放課後。
樹が自室でくつろいでいると、玄関のインターホンが鳴った。
ドアを開けると、そこにはピシッと制服を着こなし、高級そうなタッパーを持った涼香が立っていた。
「……夏目先輩? どうしたんですか?」
涼香はぷいっと横を向くと、タッパーを樹の胸に押し付けるように手渡してきた。
「昨日の夜食のお礼よ。……栄養バランスが偏ってそうだったから、余ったおかずを作ってきてあげたの。勘違いしないでね、器を返すついでだから!」
タッパーの中には、プロ顔負けの美しい色合いで作られた出汁巻き卵と筑前煮が入っていた。
「これ……先輩が作ったんですか?」
「そうよ。……私は借りを作るのが嫌いなの。だから、これからあなたが変な夜食を作らないように、私が夕飯の余りを届けてあげるわ」
「え? いや、それは申し訳ないです……」
「文句は言わせないわ。いいから受け取りなさい!」
こうして、夜中のひょんな出来事から始まった二人の関係は、
「夜食のお礼」から「毎日の手作りお弁当・夕食の配達」、そしていつしか「部屋への上がり込み」へと発展していくことになるのだった。




