雨の去り際と、二人だけの甘い食卓
窓を叩いていた激しい雨足はいつの間にか弱まり、遠くでしとしとと静かな音を奏でるだけになっていた。
カーテンの隙間から差し込む薄明るい夕暮れの光が、ベッドに横たわる二人を優しく照らしている。
「……ん……っ……」
涼香は満足そうに小さな吐息を漏らし、樹の胸元に顔をすり寄せた。
ほんの少し前までの激しい熱の余韻で、彼女の白い肌は綺麗な桜色に染まり、額には微かに汗が浮かんでいる。
樹は彼女の細い肩を優しく抱き寄せ、乱れた黒髪をそっと手ぐしで整えてあげた。
「涼香、体……痛くない?」
「……ううん。樹くんの手がすごく温かかったから……全然痛くないわ。ただ……なんだか、体がフワフワして……力が入らないけれど」
涼香は上目遣いに樹を見上げると、少し照れくさそうに琥珀色の瞳を揺らした。
大学での彼女からは絶対に想像もつかない、隙だらけで可憐な表情。
世界中でただ一人、自分だけがこの姿を知っているという優越感と愛おしさが、樹の胸をいっぱいに満たしていく。
「……ねえ、樹くん」
「なあに?」
「私、さっき言ったでしょう? 『完璧な私じゃなくても愛してくれるの?』って……」
涼香は樹の左手を引き寄せ、その薬指にはめられたプラチナリングにそっと自分の指輪を重ね合わせた。二つのリングがカチリと小さな音を立てる。
「私ね、自分でも自分が嫌になることがあるの。学校ではみんなの期待に応えなきゃいけないって肩に力が入って、素直になれなくて……。でも、あなたの前にいると……どんどん自分がワガママで、ダメな女の子になっていく気がして……」
「ダメな女の子なんかじゃないよ」
樹は涼香の手をぎゅっと握り返した。
「一人で全部背負い込んでいた涼香が、僕の前でだけは弱音を吐いて、甘えてくれる。それが僕にとっては一番嬉しいんだ。……だって、僕が涼香の『特別な場所』になれてるって実感できるから」
「……ツキ……」
涼香の瞳が潤み、愛おしさに耐えかねたように樹の首元へ抱きついてきた。
「……ずるいわ。そんなこと言われたら、私……本当にあなたの膝の上から一生離れられなくなっちゃうじゃない……」
「離れなくていいよ。ずっとここにいて」
二人は静かな部屋の中で、どちらからともなく微笑み合い、優しく唇を重ねた。
激しい情熱ではなく、お互いの存在を深く噛みしめるような、温かく穏やかな接吻。
しばらくの間、雨上がりの静寂を楽しみながら寄り添っていた二人だったが、ふと、涼香のお腹から小さく「ぐぅ……」と可愛らしい音が鳴り響いた。
「〜〜〜〜っ!?」
涼香は一瞬で顔を真っ赤にし、両手でお腹を押さえて樹の胸元へ顔を埋めた。
「ち、違うの! 今のは……その、体が温まったから不可抗力で……!」
「ふふ、そうだったね。さっきかなり運動もしたし、お腹空くのは当然だよ」
樹は苦笑しながら、涼香の頭を優しく撫でた。
「よし、そろそろ夕飯にしようか。涼香が楽しみにしてたハンバーグ、とびきり美味しいのを作るからね」
「……うん! 樹くんのハンバーグ、私……世界で一番大好きなの」
さっきまでの艶やかな雰囲気から一転、一瞬でパッと表情を輝かせる涼香。
その無邪気な笑顔を見ているだけで、樹の心からは疲労なんて吹き飛んでしまうのだった。
◇
キッチンに香ばしい肉汁と甘辛いソースの匂いが立ち込める。
樹がフライパンでじっくりとハンバーグを焼き上げていると、背後からスッと温かい体温が寄り添ってきた。
見れば、樹の大きめのTシャツを着た涼香が、後ろから樹の腰に抱きついている。
「涼香、危ないよ? 油が跳ねるから」
「やだ。ここで見ているの……。樹くんが私のためにご飯を作ってくれる姿を見るのが、私の一番の幸せなんだから」
そう言って、涼香は樹の背中に頬を擦り寄せてくる。
エプロン越しに伝わる彼女の柔らかさと体温に、樹は照れくささを隠しながらハンバーグを皿へと盛り付けた。
ダイニングテーブルに並べられたのは、ふっくらと焼き上がった特製デミグラスハンバーグと、温かいお味噌汁、そしてツヤツヤの白ご飯。
「「いただきます」」
二人は手を合わせ、同時に箸を伸ばす。
涼香はハンバーグを小さく一口サイズに切り分け、口へと運んだ。
モグモグと噛みしめると、一気にその表情が蕩けるような笑顔へと変わる。
「……おいしい……! 肉汁が溢れて、ソースもすごく深みがあって……やっぱり樹くんのご飯は最高よ……!」
「良かった。頑張って下準備した甲斐があったよ」
「ねえ、樹くん。あーんしてあげようか?」
「え? いや、自分で食べられるよ……」
「いいから! ほら、あーん」
涼香は楽しそうにハンバーグを一口分箸でつまむと、樹の口元へと運んできた。
断りきれず「あーん」と口を開けて受け取ると、涼香は満足そうに「ふふっ」と可愛らしく微笑むのだった。
昼間は大学で、誰もが遠巻きに見上げる完璧な『夏目先輩』。
けれど、こうして二人で食卓を囲み、笑い合い、お互いを甘やかし合う時間の中にいるのは、樹の愛しい『妻』だけだ。
「……ねえ、樹くん」
「ん?」
「明日の大学、二人で一緒に登校はできないけれど……放課後、また生徒会室の近くで待っていてもいい?」
「うん、もちろんだよ。一緒に帰ろう」
「ふふ、約束ね。……あ、でも、学校ではちゃんと『夏目先輩』って呼ぶのよ?」
「分かってるよ、涼香」
雨上がりの夜空には美しい星が覗き始め、二人の部屋を優しく包み込んでいく。
完璧な先輩と、冴えない後輩。
だけど扉を閉めれば、そこには世界で一番甘くて、誰にも邪魔されない「二人だけの夫婦生活」が続いていくのだった——。




