雨の午後の書斎と、解けていく氷姫の素顔
「……樹くん、お願い。もう少しだけ、このままでいさせて……」
日曜日の午後。外は激しい雨が降り続いており、窓ガラスを叩く規則的な雨音だけが、静かな部屋の中に響いていた。
橘樹の自室にある小さな書斎。
明日の講義の予習をしていた樹の膝の上には、すっかり脱力した様子の夏目涼香が収まっていた。
今日の彼女は、家でしか見せない薄桃色のオーバーサイズニットに、柔らかいショートパンツという姿。
大学で誰もが恐れる完璧で冷徹な『氷山姫』——生徒会副会長・夏目涼香の面影はどこにもない。
樹の胸元に両腕を回し、すりすりと首筋に鼻先を押し当ててくる彼女は、ただ樹の愛を求めて甘える、可憐な『妻』そのものだった。
「涼香、そろそろ予習を終わらせないと……夕飯の買い出しにも行けなくなっちゃうよ?」
「やだ……。お外は雨だし、寒そうだもの。……それに、今日は朝から樹くんが全然構ってくれなかったじゃない」
涼香はぷくっと頬を膨らませ、上目遣いに樹を睨みつけた。
だが、その琥珀色の瞳はトロトロに潤んでおり、甘えるような熱を帯びている。
「朝は部屋の掃除をして、昼は作り置きの準備をして……ずっと忙しかったんだよ。涼香が『ハンバーグが食べたい』って言ったから、挽き肉の下準備もしておいたし」
「……っ。そ、それはそうだけど……」
理由を聞かされた涼香は、急に気まずそうに目を泳がせた。
自分の好物のために樹が動いてくれていたと知り、耳まで真っ赤にして俯いてしまう。
「……ずるいわ。そんなこと言われたら、私がただのワガママな奥さんみたいじゃない……」
「ただのワガママな奥さんだよ。でも、すごく可愛くて愛おしい奥さんだけどね」
「〜〜っ! 意地悪……!」
涼香は真っ赤になった顔を隠すように、樹の胸元へ勢いよく飛び込んできた。
抱きしめる腕にギュッと力がこもり、彼女の柔らかい体温と、甘いシャンプーの香りが樹の全身を包み込む。
「……ねえ、樹くん」
「ん?」
「私……時々、怖くなるの」
涼香の声が、雨音に消されそうなほど小さく揺れた。
樹はペンを置き、彼女の華奢な背中を優しく撫でながら耳を傾ける。
「大学での私は……みんなに『完璧』であることを求められているわ。失敗もしない、弱音も吐かない、冷酷なまでに正しい夏目涼香。……でも、本当の私はこんなに甘えん坊で、独占欲が強くて、あなたの前じゃ何もできないダメな女の子……」
涼香は樹の胸元から顔を上げ、不安そうに瞳を揺らした。
「もし……いつか樹くんが、この本当の私に呆れてしまったら? 『こんなに面倒くさい女だと思わなかった』って、捨てられてしまったら……私、どうすればいいの……?」
その言葉に、樹の胸が締め付けられるように痛んだ。
誰よりも気高く、強そうに見える彼女。
けれどその内側は、一人暮らしの寂しさと孤独に怯えていた、脆くて繊細な一人の少女なのだ。
樹は深く息を吐き出すと、涼香の頬を両手で優しく包み込み、正面から彼女の瞳を見つめた。
「涼香。ベランダで初めて出会った夜のこと、覚えてる?」
「……ええ。お腹を鳴らして……泣きながらあなたの炒めうどんを食べた、あの恥ずかしい夜のことでしょう……?」
「うん。あの夜、涙目になりながらうどんを爆食いしていた涼香を見て、僕がどう思ったか知ってる?」
涼香は不思議そうに首をかしげた。
「……『変な先輩に絡まれた』って……呆れていたんじゃないの……?」
「全然違うよ」
樹は優しく微笑み、彼女の額にそっと自分の額をこつんと当てた。
「『なんて可愛くて、守ってあげたくなる人なんだろう』って思ったんだ。完璧な夏目先輩じゃなくて、素直にお腹を空かせて、美味しそうに食べて、一人で寂しがっていた涼香に……僕はあの瞬間、恋に落ちたんだよ」
「っ……!」
涼香の瞳が大きく見開かれ、琥珀色の瞳からぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
「大学での『氷山姫』の涼香も素敵だけど……僕が世界で一番愛しているのは、家で僕の膝に乗って、甘えて、嫉妬してくれる、この『夏目涼香』なんだ。呆れるわけないでしょ? むしろ、僕の方こそ君なしじゃ生きていけない体にされているんだから」
樹はそう言うと、彼女の左手を引き寄せ、薬指に光るシンプルなプラチナリングにそっと唇を寄せた。
「一生、僕の側でワガママを言って、甘えて、美味しいものをたくさん食べて。僕の人生のすべてをかけて、涼香を幸せにするから」
「ツキ……っ! 橘樹のバカ……っ!」
溢れ出す感情に耐えきれなくなった涼香は、樹の首元に強く抱きつき、自分から激しく唇を重ねてきた。
雨の音しか聞こえない静かな書斎。
互いの呼吸が混ざり合い、甘い水音が小さく響く。
何度も、何度も、確かめ合うように重ね合わされる接吻。
涼香の舌先が樹の唇を割って割り込み、熱い甘さを求めて絡みついてくる。さっきまでの不安を全て塗りつぶすような、濃厚で狂おしいほどの愛の証明。
「んっ……ふぁ……っ……ツキ……大好き……っ、大好き……っ!」
「僕も大好きだよ、涼香……」
唇が離れると、涼香は荒い息を吐きながら、紅潮した顔で熱い視線を送ってきた。
琥珀色の瞳はトロトロに蕩けており、そこには樹への深い愛と信頼だけが満ちていた。
「……ねえ、旦那様。お夕飯の準備……もう少し後にしない……?」
涼香は樹の手を取り、自分の制服の下の熱い肌へと導いていく。
「雨の音にかき消されるから……いくら声を上げても、誰にも聞こえないわ……。私を……もっともっと、あなたの愛で満たして……」
「……後悔しても知らないよ、僕の可愛いお嫁さん」
樹は涼香の細い腰をしっかりと抱き上げると、書斎の明かりを消し、静かなベッドルームへと足を進めるのだった——。
外の雨は強さを増していく。
けれど、二人の世界を包む温かな部屋の中には、一生解けることのない甘い愛の熱気だけが充満していた。




