平穏を望んだ男と、運命を変えた一皿のうどん
(※本話は橘樹の一人称視点です)
——僕、橘樹という人間は、生まれてこの方「普通」を愛し、「平穏」を第一に生きてきた。
突飛な野心もなければ、学園の主人公になりたいという願望もない。
聖華高校に入学した時も、目立たず、波風を立てず、単位と出席日数を堅実に稼いで穏やかな日々を送ることだけを目標にしていた。
だからこそ、同じ学年に在籍する『夏目涼香』という存在は、僕にとって「別世界の住人」でしかなかった。
誰もが振り返る端正な容姿、学年首位を譲らない明晰な頭脳、そして隙のない完璧な立ち振る舞い。
校内では誰もが彼女を『高嶺の花』、あるいは近づきがたい『氷山姫』と呼び、遠巻きに憧れの視線を送っていた。
僕にとっても彼女は、廊下ですれ違った時に「綺麗な人だな」と一瞬目を奪われる程度の、スクリーンの向こう側の存在に過ぎなかったのだ。
あの「雨の夜」が訪れるまでは。
◇
僕が一人暮らしをしている本郷のマンションは、築年数はそこそこ経っているものの、防音もしっかりしていて住み心地が良かった。
何より気に入っていたのは、隣の部屋との間に位置する小さめなベランダだ。
夜風が心地よい季節になると、僕はよく深夜にそこへ出て、簡単な夜食を食べながら一日の疲れを癒やしていた。
その日も、期末テストの勉強で頭を使いすぎて強烈なお腹の空きを感じていた。
時計の針はすでに深夜一時を回っている。冷蔵庫を開けると、残っていたのはうどん一玉と、キャベツの切れ端、それに少しの豚肉だけだった。
「よし、今夜はフライパン一つで香ばしく作ろう」
ごま油を熱し、豚肉とキャベツを炒め、うどんを投入する。
仕上げに醤油とみりん、少しの削り節をフライパンの縁から回しかけると、ジュワッという快音とともに、甘辛く香ばしい湯気が立ち上った。
皿に盛り付け、夜風にあたりながら食べようとベランダのサッシを開けた、まさにその時だった。
カサリ、と隣のベランダのカーテンが揺れる音がした。
「……ん?」
ふと視線をやると、隣の部屋のベランダの影に、誰かが立っていた。
夜の暗闇の中、街灯の光を受けて浮かび上がったのは——
ダボダボの大きすぎるメンズTシャツを一枚羽織り、乱れた黒髪を肩に散らした少女の姿だった。
そして、その顔を見た瞬間、僕は息をのんだ。
(……え? 夏目……先輩……?)
学校で毎日のように見かける、あの隙のない完璧な夏目涼香だった。
だが、今の彼女は、僕が知る『氷山姫』とはあまりにもかけ離れていた。
目元は少し赤く潤んでおり、今にも泣き出しそうな表情。
そして何より、彼女の視線は僕の顔ではなく、僕が手に持っている「炒めうどんの皿」に吸い寄せられるように注がれていた。
ぐぅぅぅぅぅ……。
静まり返った夜のベランダに、可愛らしくも切ない、大きなお腹の音が響き渡った。
「……っ!?」
涼香先輩は両手でお腹を押さえ、顔を真っ赤にして勢いよく後退りした。
「ち、違うわ! 今のは私じゃないの! 物理的な現象というか、胃の収縮運動が音となっただけで……!」
必死に弁明する彼女の目には、うっすらと涙すら浮かんでいた。
学校での冷徹な面影はどこにもない。そこには、空腹と恥ずかしさに震える、ただの一人の女の子がいた。
僕は思わず、ふっと微笑んでしまった。
「……夏目先輩。お腹、空いてるんですか?」
「く、空いてないわ! 夜食なんて不健康なもの、私は絶対に食べない主義なの! たまたま……たまたま匂いに誘われてベランダに出ただけで……っ」
強がりながらも、彼女の視線はチラチラと僕の手元に向かっている。
僕は何も言わずに部屋に戻り、キッチンから小鉢と箸をもう一セット持ってきた。
そして、炒めうどんを半分に分け、ベランダの仕切り越しに彼女へ差し出した。
「一人で食べるより、誰かと食べた方が美味しいですから。良かったら、どうぞ」
涼香先輩は差し出された小鉢と僕の顔を交互に見つめ、葛藤するように唇を噛みしめていた。
だが、最後には降参したように小さくため息をつき、おずおずと手を伸ばしてきたのだ。
「……一口だけだからね。……残したら勿体ないから、食べるだけなんだから……」
そう言って、彼女はうどんを一口、口へと運んだ。
次の瞬間、彼女の琥珀色の瞳が大きく見開かれた。
「……っ!」
「どうですか……?」
「……おいしい。……すごく、温かくて……おいしい……」
噛みしめるたびに、彼女の目からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
うどんの湯気に包まれながら、彼女は恥ずかしがることも忘れ、無我夢中で小鉢のうどんを平らげていった。
「先輩……? どうして泣いて……」
「……だって……」
涼香先輩は空になった小鉢を両手で抱え込み、消え入りそうな声で呟いた。
「……ずっと、寒かったの。このマンションに引っ越してきてから、夜はずっと一人で……暗くて、冷たくて……お腹が空いても、誰も何も作ってくれなくて……」
『高嶺の花』として生きる彼女が背負っていた、重すぎる孤独。
誰も寄せ付けない氷の仮面は、傷つかないために彼女が自分にまとわせた、哀しい防具だったのだ。
その涙を見た瞬間、僕の中で何かが弾けた。
「……夏目先輩」
「……なにかしら」
「これから、夜にお腹が空いたら、いつでもベランダの窓を叩いてください。僕が、温かいものを作りますから」
「……え?」
「一人で泣きながら耐える必要なんてないです。僕で良ければ、いつでも一緒に食べますから」
僕の言葉に、彼女は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
そして次の瞬間、熟したトマトのように顔を真っ赤にして、うつむいてしまったのだ。
「……バカ。……そんなこと言われたら……私、本当に毎日来ちゃうかもしれないじゃない……」
「いいですよ。毎日でも」
それが、僕たちの「秘密の夜食協定」の始まりだった。
◇
あの日から、僕の「平穏な日常」は鮮やかに、そして劇的に塗り替えられていった。
最初はベランダ越しに食べ物を分け合うだけだった。
けれど、彼女は僕が作る料理を本当に嬉しそうに、幸せそうに食べてくれた。
「樹くんの作るハンバーグ、世界で一番好き」
「今日の味噌汁、すごくほっとするわ……」
そう言って微笑む彼女の顔を見るたびに、僕の胸は苦しいほど高鳴った。
学校では決して見せない、僕だけに向けられる柔らかく甘い笑顔。
いつしか僕は、彼女に「美味しい」と言ってもらうためだけに料理を作るようになり、彼女が喜ぶ顔を見るためだけに毎日を過ごすようになっていた。
そして、お互いの部屋の鍵を交換し、どちらからともなく「一緒に住もう」という話になった夜。
涼香は僕の胸に飛び込んできて、ぽろぽろと涙を流しながら言ったのだ。
「私を……あなたの『妻』にして。もう二度と、あの冷たい暗闇に戻したくないって……抱きしめて……」
僕に迷いはなかった。
学校では『夏目先輩』と『橘くん』という他人を演じる。けれど、この家の一歩内側に入れば、彼女は僕の愛しい『妻』であり、僕のすべてだ。
◇
「……ツキ? 何をぼーっとしているの?」
ハッと我に返ると、リビングのソファで膝枕をしてくれていた涼香が、不思議そうに僕の顔を覗き込んでいた。
部屋には心地よい夕食の残り香と、柔らかい照明の光が満ちている。
僕の髪を優しく撫でる彼女の手からは、あの雨の夜にはなかった、深い温もりと愛おしさが伝わってきた。
「ううん……最初の夜のことを思い出していたんだ。ベランダで、涼香が泣きながらうどんを食べていた日のこと」
「〜〜っ!? な、なんで急にそんな昔の恥ずかしい話を思い出すのよ……!」
涼香は瞬時に顔を真っ赤にし、ぽかぽかと僕の胸を叩いた。
「あの時は本当に恥ずかしかったんだから! 忘れなさいって言ったでしょう!?」
「はは、ごめんごめん。でもね、僕……あの夜、うどんを作って本当に良かったと思ってるよ」
僕が下から彼女の顔を見上げ、真剣な眼差しで微笑むと、涼香の叩く手がぴたりと止まった。
「……どうして?」
「あの夜があったから、僕は世界で一番可愛くて、世界で一番愛おしいお嫁さんに出会えたんだから」
僕がそう言うと、涼香の琥珀色の瞳が揺れ、みるみるうちに涙で潤んでいった。
彼女は言葉を失ったように僕を見つめた後、愛おしさに耐えかねたように身を乗り出し、僕の唇に自分の唇を重ねてきた。
「……ん……っ……」
何度も、何度も重ね合わされる、甘くて柔らかい接吻。
僕の首に回される細い腕には、決して離れないという強い意志が込められていた。
「……ずるい男……。そんな甘い言葉、どこで覚えてきたのよ……」
唇を離した涼香は、熱い息を吐きながら、僕の額に自分の額をこつんと当てた。
「でも……私もよ。あの夜、あなたのうどんを食べなかったら……私はいまだに、冷たい氷の中で一人で震えていたわ」
涼香は僕の左手を引き寄せ、その薬指に嵌められた指輪に優しく唇を寄せた。
「私を救ってくれてありがとう、橘樹。……一生、あなたの傍で……美味しいご飯を食べて、あなたに甘えさせてね……旦那様」
「もちろん存分に甘えてよ。僕の命が続く限り、ずっと君の帰る場所でいるから」
僕が抱き返すと、涼香は幸せそうに目を細め、僕の胸の中に深く埋もれていった。
平穏を望んでいた僕の人生は、あの日一皿のうどんから一変した。
けれど、今ならはっきりと言える。
この甘く、愛おしく、少しだけ危険な秘密の生活こそが——僕にとって人生最高の幸福なのだと。




