放課後の図書室と、秘められた薬指
聖華高校の放課後。西陽が斜めに差し込む図書室は、紙とインクの匂いと、静寂に満ちていた。
定期試験を来週に控えたこの時期、図書室の閲覧席は自習をする生徒たちで埋まりかけていた。橘樹は、窓際の二人掛けの席で一人、黙々と数学の問集に向き合っていた。
トントン、と軽やかな音がテーブルを叩く。
樹が顔を上げると、そこには黒髪を綺麗に整え、規則正しく制服を着こなした夏目涼香が立っていた。周囲の生徒たちが「あの夏目先輩が……」と息をのむような視線を送る中、彼女は完璧な『先輩』としての冷徹な笑みを浮かべていた。
「橘くん。ここ、隣は空いているかしら?」
「あ……はい、夏目先輩。どうぞ」
涼香は優雅にスカートの裾を整え、樹の隣に腰を下ろした。彼女のノートや参考書がテーブルの上に並べられると、ふわりと上品なシャンプーの香りが樹の鼻腔をくすぐる。
周囲の視線を意識して、樹は背筋を伸ばし、何事もないかのように問題集に目を戻した。学校での約束——『他人のフリをする』という協定。それを破るわけにはいかない。
しかし、テーブルの下では全く別の時間が流れていた。
そっと、涼香の制服のスカートが揺れ、彼女の小さな靴の先が樹の足に触れる。
(……え?)
樹が驚いて横目で見ると、涼香は真面目な顔で歴史の教科書を開いたまま、ペンを走らせていた。だが、テーブルの下では、彼女の足がじわりと樹の足に寄り添い、体温を伝えてきている。
さらに、涼香の左手が静かにテーブルの下へと伸びてきた。
すっと、樹の制服のズボンの上に置かれた涼香の指先。彼女は樹の左手を引き寄せると、自分の細い指を隙間なく絡めてきた——恋人繋ぎ。
「っ……!」
樹の呼吸が止まる。
涼香の指先は、樹の左手薬指にはめられた、目立たない細身のプラチナリング——学校ではチェーンに通して制服の内側に隠しているはずの『結婚指輪』の上を、愛おしそうに何度も撫で回していた。
(涼香……!? ここ、図書室だよ……!?)
樹は必死に視線で訴えかけるが、涼香は知らん顔でノートに文字を書き続けている。けれど、握りしめられる手の力はどんどん強くなり、その指先からは「寂しい」「触れたい」という狂おしいほどの甘い欲求が伝わってきた。
涼香は教科書の端に、小さなメモをササッと走らせると、それを静かに樹の方へ滑らせた。
『今日、家に着いたら、覚悟しておいてね。旦那様』
綺麗な達筆で書かれたその文字を見た瞬間、樹の胸が高鳴り、顔がカッと熱くなった。
樹がチラリと隣を見ると、涼香は本から目を離さないまま、琥珀色の瞳をわずかに細め、誰にも気づかれないような極小の悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
昼間は誰もが憧れる完璧な『夏目先輩』。
けれど、テーブルの下で樹の手を離そうとしない彼女は、樹の愛を一心に求める可憐な『妻』だった。
(……家につくまで、我慢できるかな……)
静かな図書室の片隅で、二人の心拍数は夕陽の赤さよりも深く、甘く重なり合っていくのだった——。




