高嶺の花の憂鬱と、ベランダの小さな奇跡
(※本話は夏目涼香の一人称視点です)
——周囲の人々は、私のことをいつからか「高嶺の花」や「完璧な夏目先輩」と呼ぶようになっていた。
聖華高校の廊下を歩く時も、生徒会の会議室にいる時も、私は常に背筋を伸ばし、隙のない微笑みと、誰も踏み込ませない適度な距離感を保ち続けてきた。
「夏目先輩って本当にすごいわよね。模試の成績もずっと学年首位だし……」
「お家柄も良いみたいだし、なんだか住む世界が違う気がするよ」
そんな囁き声が聞こえてくるたびに、私はただ優しく会釈を返し、何事もなかったかのように通り過ぎる。
けれど、私自身だけが知っていた。
それが、自分を守るために必死で作り上げた「鎧」に過ぎないということを。
本郷のこのマンションで一人暮らしを始めてからというもの、昼間の多忙な時間を終えて冷たい玄関のドアを開けるたび、私を迎えてくれるのはいつも暗闇と静寂だけだった。
明かりのついていない部屋、誰も待っていないリビング。
一人で迎える夜の静けさは、時に耐えがたいほどの孤独となって私の胸を締め付けた。
特に、深夜にお腹が空いてしまった時。
情けなく鳴るお腹を押さえ、暗い部屋で一人でじっと耐えていると、自分が世界でたった一人取り残されたような寂しさに涙が溢れそうになるのだ。
「……夜食なんて、不健康なだけだわ。私は絶対に食べないんだから……」
あの夜も、そうやって膝を抱えながら自分に言い聞かせていた。
そんな時——ベランダの隙間から流れてきたのは、香ばしく甘辛い、食欲を狂わせるような醤油とタレの香りだった。
炒めうどんの、たまらなく魅力的な匂い。
吸い寄せられるようにベランダへ続く窓を開けると、そこにいたのは、学校では目立たず静かに過ごしている後輩——橘樹くんだった。
「……夏目先輩?」
ダボダボのルームウェアを着て、お腹を鳴らし、少し涙目になった私を見て、彼は目を丸くしていた。
その瞬間、私が十数年かけて築き上げてきた『完璧な先輩』の姿は、跡形もなく崩れ去った。
恥ずかしさで消えてしまいたかったけれど、樹くんは私を笑うことも、幻滅したような目で見ることもなかった。
彼はただ優しく微笑み、キッチンから小鉢を持ってきて、熱々の炒めうどんを分けてくれたのだ。
「良かったら、一緒に食べませんか?」
あの夜、夜風が吹き抜けるベランダで食べたうどんの味を、私は一生忘れない。
そこから始まった、私たちだけの「秘密の夜食協定」。
ベランダ越しに食べ物を分け合う関係から、互いの部屋を行き来するようになり……そして、誰にも言えない「秘密の夫婦生活」へ。
樹くんは、その深くて温かな愛で、私の心にまとわりついていた分厚い氷を少しずつ溶かしてくれた。
みんなの前では気高き『氷山姫』。だけど、彼の前でだけは、甘えん坊で、嫉妬深くて、彼に抱きしめられるだけで胸がいっぱいになってしまう、ただの小さな女の子でいられる。
「……橘樹、あなたって本当にずるい男ね」
昼下がりの屋上で、彼に甘く乱された後の唇を指先でそっと撫でながら、私は鏡に映る自分の顔を見つめた。
学校での『先輩』としての強がりを崩され、彼なしでは生きていけない体にされてしまった。
それでも……こんなにも心が満たされている。
「……私をこんなに甘やかしておいて……責任、取ってもらうんだから」
私は鏡を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。
背筋を伸ばし、いつもの気品ある微笑みを浮かべてドアノブに手をかける。
——大丈夫。
どれだけ外で『完璧な夏目先輩』を演じようと、日の沈む頃には、私を世界で一番愛してくれる「旦那様」の待つ、あの温かな我が家へ帰れるのだから——。




