雨上がりの屋上と、嫉妬の特効薬
「……橘くん。ちょっと面を貸しなさい」
昼休み直後の西校舎三階、特別教室棟へ続く渡り廊下。
昼下がりの柔らかい光が差し込む廊下で、クラスメイトとの雑談を終えたばかりの橘樹は、背後から聞こえた冷ややかな声に肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこには完璧に制服を着こなし、腕を組んで佇む夏目涼香の姿があった。
凛とした立ち姿、隙のない美しい佇まい。琥珀色の瞳はいつも以上に鋭く冷たさを帯びており、周囲の生徒たちは「また夏目先輩が後輩を指導しているのか」と言いたげに、遠巻きに畏怖の視線を送っている。
「な、夏目先輩? 何でしょうか……?」
「言い訳は後。ついて来なさい」
涼香は返事も待たずに踵を返すと、優雅な、けれどどこか急ぎ足な歩調で階段を上り始めた。
樹は冷や汗をかきながら、彼女の数歩後ろを静かに追いかける。階数を重ねるごとに周囲の人の気配が消えていき、やがて辿り着いたのは——「立入禁止」の札が下げられた、屋上へと続く重い鉄の扉の前だった。
涼香は慣れた手つきでポケットから小さな鍵を取り出すと、カチャリと音を立てて解錠し、扉を押し開けた。
微かに残る雨の匂いと、吹き抜ける爽やかな初夏の風。
青空が広がる屋上に足を踏み入れた瞬間、涼香は後ろ手で扉を閉め、鍵を掛けた。
重い鉄の音が響き、完全な「二人きりの密室」が完成する。
「……あの、夏目先輩。ここ、立ち入り禁止じゃ……」
「生徒会権限で鍵は借りてあるわ。……それより、橘くん」
涼香はくるりと振り返ると、一歩、また一歩と樹に近づいてきた。
校内での『氷山姫』の冷徹な仮面はそのままに、けれどその瞳の奥には、メラメラと燃え上がるような怪しい熱が宿っている。
「……今日の昼休み、2年B組の廊下で、サッカー部の女子マネージャーと楽しそうに話していたわね?」
「え? ああ、彼女ですか。来週の球技大会のプリントを渡されただけで……」
「『樹くんって本当に頼りになるね、今度お礼にジュース奢らせて?』って、笑顔で言われていたわよね?」
「〜〜っ!? なぜそれを……!?」
樹は目を見開いた。涼香は生徒会室にいたはずだ。まさか遠くから見張られていたのだろうか。
「……偶然、見かけただけよ。偶然……ね」
涼香は唇を尖らせ、ふいっと横を向いた。
だが、次の瞬間、彼女は樹の制服の襟ぐりを両手でぎゅっと掴むと、そのまま背後のフェンスへと押し付けた。
「……私、すごく嫌だった」
「……涼香?」
名前を呼んだ瞬間、彼女の瞳から『先輩』としての強がりが消え去った。
ぽろぽろと零れ落ちそうなほど瞳を潤ませ、唇を震わせる。大学でも校内でも見せることのない、ただ樹の愛を求めて焦がれる「妻」の素顔だった。
「私以外の女子に、そんな柔らかい顔で見つめられないで。……私、学校では『他人のフリ』をしなきゃいけないのに、あんなところ見せられたら……嫉妬で狂いそうになるじゃない……!」
「ごめん……本当に、ただの業務連絡だったんだ。僕の心にあるのは、世界で涼香だけだよ」
「口だけなら何とでも言えるわ……」
涼香は胸元に顔を埋め、衣類越しに樹の鼓動を確かめるように強く押し当ててきた。
「……証拠を見せて。私が、あなたの特別だって……今すぐここで、証明して」
雨上がりの澄み切った空の下、屋上の風が二人の髪を揺らす。
樹は深く息を吐き出すと、涼香の華奢な腰を引き寄せ、彼女の顎をそっと持ち上げた。
「……後悔しないでね?」
「……後悔なんて、するわけないでしょう……っ」
重なる唇。
図書室でのささやかな接吻とは違い、お互いの嫉妬と愛おしさを全て吐き出すような、濃厚で甘い接吻だった。
「んっ……ふぁ……っ……ツキ……っ」
甘い水音が屋上に響く。涼香は樹の首元に細い腕を回し、少しでも密着しようとつま先を伸ばした。
何度も唇を離しては、どちらからともなく求め合い、再び重ね合わせる。涼香の頬は熟した桃のように赤く染まり、琥珀色の瞳はトロトロに蕩けていた。
「……んっ……はぁ……、まだ……足りない……」
「涼香、息……苦しくない?」
「苦しくてもいい……。もっと、私を壊すくらい抱きしめて……『旦那様』……」
屋上の壁の陰、誰にも見られない死角で、二人は時間を忘れて貪り合った。
さっきまでの冷酷な氷山姫の面影はどこにもない。樹の胸元に顔を擦り寄せ、熱い息を吐きながら甘くおねだりを繰り返す、一人の可憐な少女がそこにいた。
「……もう、他の女子と話さないでなんて言わないわ。……でも、私の前では……家につくまで、私だけのものになって……」
「言われなくても、僕は最初から最後まで、涼香だけのものだよ」
樹が耳元で優しく囁き、耳たぶにそっとキスを落とすと、涼香は「くぅん……」と可愛らしい声を漏らして樹の胸の中に沈み込んだ。
太陽が少しずつ傾き、屋上を茜色に染めていく。
ふたりは手を強く繋ぎ合い、指と指を絡めながら、互いの体温を心ゆくまで確かめ合った。
「……さ、そろそろ鍵を返しに行かないと。放課後の部活が始まっちゃうわ」
数十分後、少し落ち着きを取り戻した涼香は、スカートの乱れを整えながら鏡で自分の顔を確認した。
唇は少し腫れ上がり、紅潮が残っている。
「……こんな顔じゃ、生徒会室に戻れないじゃない。どうしてくれるのよ」
「はは……ごめん。涼香が可愛すぎるのが悪いんだよ」
「……もう。本当に、意地悪な旦那様」
涼香は照れくさそうに微笑むと、最後に樹の頬にちゅっと軽いキスを落とした。
そして、屋上の鍵を閉め、階段を下りる頃には——彼女は再び、誰もが憧れる完璧で気高き『夏目先輩』の表情へと戻っていた。
だが、背中に回された彼女の右手は、樹から見えない角度で、そっと「秘密の愛のサイン」を指で作ってみせた。
学校での静かな緊張感と、二人だけの甘く狂おしい秘密。
二人の「夫婦生活」は、誰も知らない校舎の片隅で、今日一層深く、甘く刻み込まれていくのだった——。




