深夜の秘密キッチンと、甘い試食おねだり
雨が止み、静まり返った深夜のマンション。
橘樹が明日のお弁当用の下ごしらえをするためキッチンに立つと、廊下からパタパタと小さな足音が近づいてきた。
開いたドアの隙間から覗いたのは、樹の大きめのTシャツを一枚羽織っただけの夏目涼香だった。
乱れた黒髪と、少し眠たげに潤んだ琥珀色の瞳。大学での完璧な『氷山姫』の面影は微塵もなく、無防備な『妻』の姿がそこにあった。
「……ツキ? こんな時間に何しているの……?」
「あ、起こしちゃった? 明日の二人分のお弁当のおかず、作り置きしておこうと思って」
樹が微笑むと、涼香は目をこすりながらキッチンへ歩み寄り、背後から樹の腰にギュッと抱きついた。背中に伝わる彼女の体温と、甘いシャンプーの香り。
「……ん。お弁当、楽しみ……。でも、私を一人にしてキッチンに行くなんて、ひどい旦那様ね」
「ごめんごめん。ほら、もうすぐ終わるから。ちょうど照り焼きチキンが良い感じに出来上がったところだよ」
甘辛い醤油とみりんの芳醇な香りが、フライパンから立ち上っている。
樹がフライパンの火を止めると、涼香は樹の背中に顔を擦り付けたまま、甘い声で囁いた。
「……ねえ、樹くん。味見……させて?」
「いいよ。熱いから気をつけてね」
樹が小さく切った肉を箸でつまみ、涼香の方へ振り向くと、彼女はつま先立ちになって「あーん」と口を開けた。
「……ん。……ふふ、すごく美味しい。味がしっかり染み込んでて、完璧」
嬉しそうに頬を緩ませる涼香。だが、彼女はそれだけでは満足しなかったようだ。
「……でもね、樹くん」
「ん?」
涼香は樹の腕を掴むと、その指先をじっと見つめ、ゆっくりと自分の唇へと引き寄せた。
「お肉の味だけじゃ……足りないわ」
「涼香……!?」
指先に触れる、柔らかく熱い唇の感触。
涼香は上目遣いに樹を見つめながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「……学校では『夏目先輩』って冷たく呼んで、手すら握ってくれないんだもの。家ではこれくらい甘やかしてもらわないと、収まりがつかないの」
「……本当に、大学の人が見たら腰を抜かすよ……」
「見せるわけないでしょう? この姿も、この甘い声も……世界で橘樹だけにしか見せないんだから」
涼香は樹の首に細い腕を回し、つま先立ちのまま自分の唇を重ね合わせた。
照り焼きの甘辛いタレの味と、涼香の甘い蜜の味が混ざり合い、夜のキッチンに小さく艶やかな水音が響く。
「……んっ……ツキ……大好き……」
「僕もだよ、涼香」
深夜の静かなキッチンで、二人はお互いの存在を深く確かめ合うように、何度も何度も唇を重ね合わせた。
「……さあ、旦那様。お弁当の準備が終わったら……ベッドに戻りましょう? 今夜は、朝まで絶対に離してあげないんだから……」
そう耳元で甘く囁く妻の手を握り返し、樹は幸せな溜息をつきながら、静かな寝室へと向かうのだった——。




