放課後の豪雨と、雨宿りの愛妻弁当
「——うわ、すごい降りになってきたな……」
部活が終わる頃、空を覆った黒雲が一気に破裂したかのように、校庭には滝のような激しい雨が叩きつけていた。
橘樹は昇降口で立ち尽くし、白く煙る校庭を見つめてため息をついた。天気予報を見落としており、傘を持ってきていない。
「……傘、忘れたの?」
背後から掛けられた、少し低めで澄んだ声。
振り返ると、そこには黒い折りたたみ傘を手に持った夏目涼香が立っていた。放課後の校舎内に人影は少なく、二人の周りには雨音だけが重く響いている。
「夏目先輩……。ええ、完全に油断してました。先輩は今からお帰りですか?」
「ええ。生徒会の集まりが終わったところよ。……あなた、この雨の中を走って帰るつもり?」
「まあ、濡れるのは覚悟の上ですね。風邪を引かないように急いで帰ります」
涼香はあきれたように小さく息を吐くと、手にした傘を広げ、すっと樹の頭上に差し出した。
「バカね。そんなことしたら一瞬でずぶ濡れよ。……はい、入って」
「え? でも、それじゃ先輩が濡れちゃいますよ」
「いいから入りなさい。私の傘、大きめだから二人でも入るわ。それに……」
涼香は少し視線を泳がせ、耳たぶを薄桃色に染めながら呟いた。
「……帰りにスーパーで買い出しをする約束、忘れたわけじゃないでしょう? あなたが濡れて風邪でも引いたら、今日の夕飯を一緒に作れなくなるじゃない」
「涼香……」
樹は苦笑しながら、涼香の差し出す傘の下へと一歩踏み込んだ。
◇
相合い傘で歩く道中。雨粒が傘の生地を強く打つ音が、かえって二人の距離を極限まで近づけていた。
肩と肩が触れ合うほどの距離。涼香の制服からは、いつも彼女の部屋から漂ってくる上品なシャンプーの甘い香りがして、樹の胸をくすぐる。
「……ねえ、樹くん」
「ん?」
「私……雨の日って、昔はすごく嫌いだったの」
涼香は相合い傘の柄を両手でしっかりと握りしめながら、雨に濡れる街路樹を見つめた。
「家に帰っても誰もいなくて、広い部屋で一人で雨音を聞いていると、世界に私ひとりだけ取り残されたみたいな気分になって……すごく寒かったの」
「涼香……」
「でもね……今は、雨の時間がちょっとだけ好き」
涼香は立ち止まり、琥珀色の瞳で樹をじっと見上げた。その瞳には、雨模様の空ではなく、目の前にいる樹の姿だけがはっきりと映り込んでいる。
「だって……こうして一つの傘に入って、あなたの体の温もりを感じられるから。雨が降るたびに、あなたが私を抱きしめてくれたあの夜を思い出して……胸が温かくなるの」
「……っ」
あまりにもストレートで愛おしい告白に、樹は息をのんだ。
学校での『氷山姫』としての完璧な彼女を知っているからこそ、自分にだけ見せてくれるこの素直で甘い表情が、たまらなく愛おしい。
樹は傘を持つ涼香の手の上に、自分の大きな手をそっと重ねた。
「これからは、雨が降るたびに僕が隣にいるよ。涼香を一人になんて絶対にさせない」
「……うん。約束よ……旦那様」
涼香は嬉しそうに目元をほころばせると、周囲に人がいないのを確認し、樹の腕にギュッと自分の体を押し当ててきた。
◇
無事にスーパーで買い出しを終え、二人は樹の部屋へと戻った。
雨足はさらに強まり、窓ガラスを激しく叩いている。濡れた制服を着替え、薄手のルームウェアに身を包んだ涼香は、慣れた手つきでエプロンを身につけた。
「さあ、着替えも終わったし、夕飯の準備をしましょう。今日はあなたが食べたいと言っていた、ハンバーグにするわね」
「やった! 涼香のハンバーグ、ずっと楽しみにしてたんだ」
キッチンに二人並んで立ち、野菜を切ったりひき肉をこねたりする時間。
手と手が触れ合うたびに笑い合い、どちらからともなく軽いキスを交わす。
学校では決して見せられない、世界で一番甘くて贅算な「夫婦の時間」。
「ねえ、樹くん。あーんして」
焼き上がったハンバーグのソースを小スプーンで掬い、涼香が樹の口元へと差し出す。
「熱いから気をつけてね? ……はい」
「ん……! うまい! 完璧な味付けだよ、涼香」
「ふふ、当たり前でしょう? あなたの奥さんなんだから」
誇らしげに胸を張る涼香の腰を引き寄せ、樹はそのまま彼女の柔らかい唇を奪った。
「んっ……!? ちょっと、樹くん……まだ料理の途中……っ」
「我慢できないよ。涼香が可愛すぎるのが悪いんだ」
「もう……本当に調子の良い旦那様なんだから……」
呆れながらも、涼香は嬉しそうに樹の首に腕を回し、深く甘い接吻を受け入れた。
外の激しい雨音を吹き消すように、二人の部屋には甘い熱気と愛の言葉が満ちていく。
互いの存在を確かめ合い、絆を深めていく夜は、新緑の季節とともにどこまでも深く続いていくのだった——。




