朝のキッチンと、夫婦の小さな罰ゲーム
「……ん、美味い。やっぱり涼香の出汁巻き卵は世界一だな」
樹が焼き立ての玉子焼きを口に運ぶと、隣でエプロン姿の涼香が誇らしげに胸を張った。
「当然でしょう? あなたの好みの出汁の濃さは、もう完璧に叩き込まれているんだから」
昨夜の甘い余韻を残したまま、朝の光が差し込むキッチン。二人は並んで朝食を囲んでいた。薄手のルームウェアから覗く涼香の白皙な首元には、昨夜樹が残した小さな紅潮の痕跡がうっすらと残っている。
樹の視線に気づいた涼香は、急に耳まで真っ赤にしてエプロンの胸元をキュッと引っ張った。
「な、なにジロジロ見ているのよ……! 誰のせいだと思っているの?」
「ごめんごめん、可愛すぎてつい。……でも、大学で首元見られないように気をつけてね? 『あの夏目先輩に彼氏が!?』って大騒ぎになっちゃうから」
「ふん、心配いらないわよ。今日はハイネックのインナーを着ていくわ。……それに、大学での私は『完璧な先輩』だもの。隙なんて見せるわけないでしょう」
涼香はフンスと鼻を鳴らし、お茶を一口飲んだ。
◇
しかし、その「完璧」は、大学の講義棟の陰であっけなく崩れることになる。
午後の講義の合間、人が通りかからない中庭の物陰。
樹がレポートの確認をしていると、背後からスッと近づいてくる気配があった。
「……橘くん」
「え? 夏目先――っ!?」
振り返った瞬間、樹の腕が引っ張られ、涼香の小さな体が飛び込んできた。
しっかりと樹の腰に腕を回し、顔を胸元に埋めてくる。
「せ、先輩!? ここ大学ですよ!? 誰かに見られたら……」
「……誰も来ないわ。さっき確認したから」
涼香の声は少し震えていて、樹の服をギュッと掴む手に力が入っていた。
「朝、あんなに甘やかしておいて……大学で『橘くん』って他人行儀に呼ぶの、今日はなんだかすごく寂しかったの……。ちょっとだけ……『旦那様補充』させて」
「涼香……」
朝の強気な態度はどこへ行ったのか、完全に甘えモードに入った妻の可憐さに、樹の胸が苦しいほど高鳴る。
樹は苦笑しながら、周囲を警戒しつつ涼香の背中を優しく抱きしめ返した。
「……ハイネック、似合ってるよ。でも、こんなところで可愛すぎる顔しないで。また家に帰るまで我慢できなくなる」
「……ばか。我慢なんて、しなくていいのに……」
涼香は上目遣いに樹を見つめると、つま先立ちになって、樹の頬にちゅっと小さな音を立ててキスをした。
「……これ、朝私をからかった『罰ゲーム』ね。放課後、一緒にスーパーで買い物して帰るわよ、旦那様」
悪戯っぽく微笑んだ涼香は、足音もなくパッと離れると、何事もなかったかのように凛とした表情(氷山姫モード)に戻り、優雅に講義棟へと歩き去っていった。
取り残された樹は、赤くなった頬を押さえながら深く息を吐き出した。
(……やっぱり、この人には一生勝てそうにないな)
二人の「秘密の夫婦生活」は、キャンパスの日常の裏側で、今日も甘く密やかに続いていくのだった——。




