新緑の風と、秘められた嫉妬
五月に入り、キャンパスを包む空気はすっかり初夏の爽やかさを帯びるようになっていた。
青空の下、眩しい日差しを受けて青々と茂るクスノキの葉が、時折吹き抜ける涼やかな風にさらさらと音を立てて揺れている。
講義の合間の昼休み。樹は学食で友人の武士と向かい合い、日替わり定食の唐揚げを口に運んでいた。
「なぁ樹、お前最近なんかいいことあったか? 顔がずっとニヤけてるぞ」
武士が味噌汁を啜りながら、じとーっとした目で樹を観察するように覗き込んでくる。
「えっ……? 別にニヤけてなんか……」
「嘘つけ。スマホの画面見るたびに口元が緩んでるっつーの。……ははーん、さては彼女か? いや、お前まさか……」
「こ、これ以上はノーコメントで!」
樹は慌ててお茶を飲み干し、誤魔化すように視線を泳がせた。
二人で暮らしている本郷のマンションでの甘い日常——毎朝「行ってきます」の kissesを交わし、夜は二人で仲良くお風呂に入り、同じベッドで抱き合って眠る生活。そんな幸福すぎる日々を思い出せば、顔が緩んでしまうのも無理はなかった。
「ま、お前が幸せそうなら何よりだけどよ。……そういえば、うちの学部の名物『夏目先輩』、今日も相変わらず凄まじい人気だな」
武士が顎で学食の入口付近を指し示した。
樹が視線を向けると、そこには群青色のブラウスに白いフレアスカートを纏った涼香の姿があった。
洗練された美しい立ち振る舞い、光を受けて輝く黒髪、そして知性溢れる琥珀色の瞳。ゼミの後輩と思われる男女数人に囲まれながら、彼女は凛とした表情で的確に指示を出している。
(うわ……今日の夏目先輩もめちゃくちゃ綺麗だな……)
(隣に並んで歩ける奴が羨ましいぜ……)
周囲の学生たちから漏れ聞こえる感嘆と羨望の声。
その中には、新入生らしき男子学生たちが熱っぽい視線を涼香に向けているのも混ざっていた。
「……ねえ、夏目先輩って彼氏とかいるのかな?」
「噂じゃ『絶対不可侵の氷山姫』だから男子には興味ないらしいぞ? チャンスあるかも……」
男子学生たちのヒソヒソ話が耳に届き、樹の胸の奥がチクリと痛んだ。
(涼香は僕の奥さんだ……って、大声で叫べたらどんなにいいか……)
勿論、大学内ではお互いの学生生活に支障が出ないよう、夫婦であることを伏せている。それは二人で話し合って決めたルールだったが、こうして他の男子から熱い視線を送られている涼香を見ると、自分でも驚くほどの独占欲と嫉妬心が込み上げてくる。
その時、後輩指導を終えた涼香が、ふと学食の奥へ視線を巡らせた。
そして樹と目が合った瞬間——。
ほんの一瞬だけ、彼女の完璧な「氷山姫」の表情が崩れ、琥珀色の瞳が愛おしそうに揺れた。言葉はなくとも、「見つけた」と言わんばかりの小さな笑みがその唇に浮かぶ。
樹は心臓が跳ね上がるのを感じながら、そっと小さく手を振った。涼香は満足そうに微笑むと、そのまま優雅な足取りで学食を後にして行った。
……
その日の夕方。
講義を終えた二人は、時間差でマンションに帰宅した。
玄関のドアを開け、樹がリビングに入ると、すでに帰宅していた涼香がエプロン姿で出迎えてくれた。
「おかえりなさい、樹くん」
涼香は嬉しそうに駆け寄ってくると、当然のように樹の首元に両腕を回し、つま先立ちになって唇に優しくキスを落とした。
「ただいま、涼香」
「ふふ、今日もお疲れ様。……あれ? 樹くん、なんだか少し元気がなさそう? どうしたの?」
樹の微妙な表情の変化を見逃さず、涼香は心配そうに眉をひそめて樹の頬を両手で優しく包み込んだ。
「ううん……なんでもないよ」
「嘘。私に隠し事なんてできると思っているの? ……ほら、素直に言って頂戴?」
涼香の真摯で甘い瞳に見つめられ、樹は誤魔化しきれないことを悟り、少し気まずそうに視線を下げた。
「……昼間、学食で涼香のことを見ていたんだ」
「ええ、私も樹くんを見つけたわ。すごく嬉しかったけれど……それがどうしたの?」
「……他の男子学生たちが、涼香のことを『綺麗だ』とか『付き合いたい』って話しているのが聞こえて……。なんだかすごくモヤモヤしちゃって。涼香は僕だけの奥さんなのにって……嫉妬しちゃったんだ」
素直に胸の内を明かした樹の顔は、恥ずかしさで真っ赤になっていた。
一瞬の静寂の後。
涼香は驚いたように目を丸くしたが、次の瞬間、その琥珀色の瞳を熱く潤ませ、花がほころぶような至高の笑顔を浮かべた。
「……っ……可愛い……! 樹くん、私に嫉妬してくれたの……!?」
「も、もう笑わないでよ……自分でも大人気ないって分かってるんだから……っ」
「笑ってなんかいないわ! 嬉しくて……胸が破裂しそうなだけよ……!」
涼香は樹の首をぎゅっと抱きしめ、全身で樹にすり寄ってきた。
「いい? 樹くん。私を見る人がどれだけいようと、私の心も、身体も、この命のすべてだって……最初からあなただけのものなのよ?」
涼香は樹の胸元に顔をうずめながら、消え入るような甘い小声で耳元に囁いた。
「大学での『完璧な夏目先輩』なんて、ただの仮面なんだから。私が本当の自分を見せられるのも、甘えられるのも、愛してもらえるのも……橘樹という世界でたった一人の旦那様だけなの」
涼香の手が、樹のシャツの裾からそっと差し込まれ、温かな肌が直接触れ合う。
「ねえ……樹くん。私があなただけの『甘々な妻』だってこと……今夜もたっぷり、身体で分からせてくれるかしら……?」
上目遣いで覗き込んでくる涼香の瞳には、濃厚な愛と情熱が渦巻いていた。
樹は深く息を吸い込むと、もう嫉妬の迷いなど吹き飛んでいた。彼は涼香の細い腰を力強く引き寄せ、その柔らかい唇を深く、熱く塞いだのだった——。




