雨上がりの夕空と、特別なディナー
新学期が始まってから三週間が経とうとしていた。
四月下旬のキャンパスは、新入生歓迎会の喧騒もひと段落し、新緑の青々とした香りが心地よく漂う季節へと移り変わっていた。しかし、季節の変わり目特有の不安定な天気のせいで、午後の講義が終わる頃には、空を重い雨雲が覆い尽くし、あっという間に本郷の街に激しい春雨を降らせていた。
「うわぁ……けっこう降ってきたね」
樹は講堂の大きな軒下で足を止め、アスファルトを叩く雨粒を眺めていた。手元には一本の折りたたみ傘しかない。
「樹くん!」
後ろからパタパタと駆け寄ってくる靴音。振り向くと、ゼミの打ち合わせを終えた涼香が、少し息を弾ませながらやってくるところだった。ネイビーのジャケットを羽織り、手にファイルを持ったその姿は相変わらず凛としているが、樹を見つけた瞬間にその琥珀色の瞳はパーッと明るくなった。
「涼香、お疲れ様。雨、すごいことになっちゃったね」
「ええ、本当ね……。私、天気予報を見落としていて、傘を持ってくるのを忘れちゃったの」
「大丈夫、僕が折畳み傘を持ってるから。少し小さめだけど、二人で入れば濡れずに帰れるよ」
樹がそう言って傘を広げると、涼香は「二人で入れば」という言葉に反応して、頬を微かに桃色に染めた。そして、当然のように樹の右腕に自分の腕をギュッと絡めてきた。
「じゃあ……失礼するわね、樹くん」
「うん、濡れないようにしっかりくっついててね」
ひとつの傘を二人で差し、相合い傘で駅までの道のりを歩き出す。
雨粒が傘の布地を叩くトントンという心地よいリズムと、傘の差し出し口から伝わってくるお互いの体温。涼香の肩が濡れないように、樹が少し自分の方へ傘を傾けると、涼香はその優しさに気づいたように嬉しそうに微笑んだ。
「樹くん、左肩が濡れちゃうわ。もっと私に寄って?」
そう言って、涼香はさらに樹の体に密着してきた。雨の日の少し冷たい空気の中で、彼女の体温と甘い香りが一層際立って感じられる。
「ねえ、樹くん。私、雨の日は少し苦手だったの。空が暗くて、一人で家にいると寂しさが募るから……。でもね、あなたと一緒に歩く雨の日は、世界で一番温かい時間になるの」
「涼香……」
「だって、こうして合法的に(?)あなたにぴったりくっついて歩けるでしょう?」
涼香は少しいたずらっぽく上目遣いで覗き込んできた。外で見せる「完璧な先輩」の姿と、二人きりの時に見せるこの愛らしい素顔のギャップに、樹の心臓はいつだって跳ね上がってしまう。
「……もう、そんな可愛いこと言われたら、家まで遠回りしたくなっちゃうよ」
「ふふ、遠回りしてもいいのよ? あなたとなら、どこまででも歩いていけるんだから」
……
マンションに到着する頃には、激しかった雨もすっかり上がり、西の空からは雲の隙間を縫って鮮やかな橘色の夕焼けが差し込んでいた。濡れた街路樹の葉が、夕日を受けてキラキラと黄金色に輝いている。
「綺麗……!」
ベランダに出た涼香が、夕空を見上げて歓声を上げた。雨上がりの澄んだ空気と、空を染める美しいグラデーション。
「樹くん、見て! 虹が出てるわ!」
涼香が指さす方向には、うっすらとだが綺麗な七色の橋が架かっていた。
「本当だ……。新学期が始まってから忙しかったけど、すごく良いものが見られたね」
樹が後ろから涼香の細い腰をそっと抱き寄せ、その肩にアゴを乗せると、涼香は幸せそうに目を細めて樹の腕に自分の手を重ねた。
「ねえ、樹くん。今日の夕食、私が腕を振るってもいいかしら? 最近、樹くんに家事を任せきりにしちゃっていたから……特別なディナーを作りたいの」
「本当? 涼香の手料理、すごく楽しみだな。僕も手伝うよ」
「ふふ、ダメよ。今日は私から『頑張っている旦那様』へのプレゼントなんだから、樹食はお部屋でゆっくり待っていて」
エプロン姿に着替えた涼香は、キッチンで嬉しそうに包みトントンと心地よい音を響かせ始めた。
かつては包丁の握り方すらぎこちなかった彼女が、今では樹の好みを熟知し、手際よく料理を仕上げていく。
テーブルに並べられたのは、じっくり煮込まれたハンバーグと、彩り豊かな野菜のサラダ、そして温かいポタージュスープ。
「どうぞ、召し上がれ! 我が家の特製ハンバーグよ」
「いただきます……! うん、すごく美味しい! 肉汁が溢れていて、お店の味みたいだ」
樹が一口食べて絶賛すると、涼香はパッと顔を輝かせ、胸の前で手を合わせた。
「よかった……! 実は隠し味に、少しだけ赤ワインを入れてみたの。あなたに『美味しい』って言ってもらえる瞬間が、私にとって一番の幸せなんだから」
笑顔で語る涼香の表情には、一年前には見られなかった豊かな感情と、樹への深い愛が満ち溢れていた。
食事を終え、二人で片付けをした後。
リビングのソファでくつろいでいると、涼香がワイングラスを片手に(中身はぶどうジュースだが)、樹の膝の上にちょこんと腰を下ろしてきた。
「涼香?」
「ん……今日頑張ったご褒美に、樹くんの『甘いハグ』が欲しいの……」
涼香は樹の首元に顔を埋め、甘えるようにすりすりと頬を寄せてきた。
「外では頑張ってきたんだから、ここでは思いっきり甘えさせて……? 橘樹くんのお妻様として……ね?」
耳元で囁かれた甘く切ないおねだり。
樹は愛おしさを抑えきれず、彼女の背中に腕を回して力強く抱きしめ返すと、耳元や頬、そしてその唇に、何度も愛を確かめるようなキスを落とした。
「ん……っ……ツキ……大好き……っ」
雨上がりの澄んだ夜空の下、二人だけの特別な時間は、夜が更けるまでどこまでも甘く、温かく紡がれていくのだった——。




