春風の悪戯と、新緑のキャンパスにて
四月、満開を誇った桜の花びらが緑の若葉へと移り変わり、東京・本郷のキャンパスには新入生の期待と緊張が入り混じる独特の熱気が満ちていた。
新学期が始まって二週間。樹と涼香の二人は、それぞれ新調したスーツや落ち着いた装いに身を包み、眩しい春の日差しが差し込む講堂前の広場を歩いていた。
「……はぁ。やっぱり、この時期のキャンパスは落ち着かないわね」
涼香は手に抱えたゼミの配布資料をぎゅっと胸元に抱え直し、小さな溜息をついた。
その美しい琥珀色の瞳は、周囲から注がれる無数の視線を避けるように、ほんの少し伏せられている。
かつて全校生徒から「氷山姫」と恐れられ、孤高の存在として君臨していた夏目涼香。
大学に進学し、さらに大人の女性としての洗練された美しさを増した彼女は、ゼミの代表を務める優秀な先輩として、新入生や後輩たちの間ですでに注目の標的となっていた。
「涼香先輩! あの、先日のゼミ説明会でお世話になった新入生の佐藤です! これ、引継ぎ資料の確認をお願いしてもよろしいでしょうか!」
「あ、夏目先輩! 今週末のサークル歓迎会の件で、少しお時間いただけますか!?」
次々と声をかけてくる後輩たちに対し、涼香は一瞬だけ表情を固くしたものの、すぐに「凛とした優秀な先輩」の仮面を被り、完璧な笑みを浮かべて対応してみせる。
「ええ、佐藤くん。資料はあちらの事務室に提出しておいて頂戴。後で確認しておくわ」
「歓迎会の件は、学生会のメールアドレス宛に詳細を送ってください。内容を確認して回答します」
(うわぁ……やっぱり夏目先輩、超カッコいい……)
(綺麗すぎて直視できないよな……)
後輩たちが憧れの眼差しを向けて去っていく様子を、少し離れた木の陰から見守っていた樹は、思わず苦笑いを浮かべた。
「相変わらず大人気だね、涼香先輩」
後輩たちが去った後、樹が歩み寄って声をかけると、涼香は一瞬で「凛とした先輩」の表情を崩し、ほうっと深い溜息をついて樹の腕にそっと身を寄せた。
「……もう、からかわないでよ、樹くん。私、外では緊張して肩が凝りそうなの……」
「はは、お疲れ様。でも、本当にカッコよかったよ。みんな涼香の美しさと仕事ぶりに見とれてた」
「……他の人に見とれられても、嬉しくないわよ」
涼香は少し不満そうに口元を微かに鼓ませると、樹のジャケットの袖口をキュッと指先で引っ張った。
「私が『見とれてほしい』のは、世界であなた一人だけなんだから……」
「涼香……」
その上目遣いの愛らしさに、樹の胸がギュッと締め付けられる。周りにはまだ大勢の学生が行き交っているため、抱きしめたい衝動を必死に抑え込みながら、樹は彼女の頭を撫でたい気持ちをグッと堪えた。
……
午後、講義の空きコマを利用して、二人はキャンパスの隅にある古い図書館の裏手——新緑の木々に囲まれた静かなベンチへと向かった。
ここは、賑やかな広場とは打って変わって人通りが少なく、二人にとって格好の「避難所」だった。
ベンチに腰掛けると、涼香は待っていましたと言わんばかりに、樹の右腕にしっかりと抱きつき、その肩に頭を預けた。
「ふぅ……生き返るわ……」
「そこまで緊張していたの?」
「だって……家での私は、あなたに甘えてばかりの『ダメな奥さん』でしょう? それなのに外では『完璧な夏目先輩』を演じなきゃいけないから、ギャップで頭がクラクラしちゃうの」
「ダメな奥さんなんて一度も思ったことないよ。涼香はいつだって自慢の妻だし、僕にとっては外のカッコいい涼香も、ここで甘えてくる可愛い涼香も、全部愛おしいよ」
「……っ~! もう、樹くんは……人混みの近くでも平気でそういう甘い言葉を言うんだから……っ」
涼香は赤面しながら樹の腕に顔を埋め、小さくぽかぽかと拳を打ち付けた。
しかし、その表情には隠しきれない幸福感が満ち溢れている。
春の優しい風が吹き抜け、木々の葉がさらさらと音を立てる。
二人の左手薬指で輝くプラチナのリングが、葉漏れ日を受けてキラリと光を反射した。
「ねえ、樹くん」
「ん?」
「今日の夜……久しぶりに、二人で一緒にお風呂に入らない……?」
涼香は恥ずかしさに耳まで真っ赤にしながら、樹のシャツのボタンに指先を絡ませ、消え入るような小声で囁いた。
「最近……お互い忙しくて、ゆっくり触れ合えていなかったから……あなたの温もりが、もっと欲しくなっちゃったの……」
外で見せる「完璧な氷山姫」の姿は完全に消失し、目の前にあるのは樹の愛を全身で求めて甘える、世界一愛しい妻の素顔だった。
樹は深く息を吸い込み、彼女の細い腰をしっかりと抱き寄せると、その耳元で低く呟いた。
「……帰ったら、逃がさないからね」
「……ふふ、逃げるつもりなんて、最初から一ミリもないわよ……旦那様」
新緑の風が吹き抜けるキャンパスの片隅で、二人だけの秘密の約定が交わされる。
新学期の忙しさの中でも、橘樹と夏目涼香の絆は、より濃密に、そして甘く深く重なり合っていくのだった——。




