春霞の誓いと、二人だけの特別な夜
第六十九話:春霞の誓いと、二人だけの特別な夜
三月の声を聞くと同時に、東京の街を包んでいた冷たい空気は一気に和らぎ、春の訪れを告げる暖かい風が本郷の街を吹き抜けるようになった。
大学のキャンパス内でも桜の蕾が日ごとに膨らみ、あと数日もすれば満開を迎えようとしている。春休みも終盤に差し掛かり、四月からの新学期に向けて、学生たちが少しずつ戻りつつある活気の中で、橘樹と夏目涼香の二人もまた、新しい季節を迎える準備を進めていた。
「よし……これでゼミの春合宿の資料と、学生会の引継ぎマニュアルは完璧ね」
リビングのデスクでノートPCを閉じた涼香が、深く息を吐き出しながら背もたれに体を預けた。
この数週間、涼香は春からのゼミ代表としての仕事と、OGとして参加する新入生歓迎会の準備に追われていた。持ち前の責任感の強さから、妥協を許さずに作業に没頭していたため、目元には少しだけ疲労の色が滲んでいた。
「お疲れ様、涼香。本当に頑張ったね」
樹がキッチンから運んできたのは、温かいアールグレイと、近所で評判の洋菓子店で買ってきたイチゴのタルトだった。甘い香りが部屋いっぱいに広がり、涼香の琥珀色の瞳がぱっと輝く。
「うわあ……! 樹くん、これ……! ずっと食べてみたかった限定のタルトじゃない!」
「うん。毎日遅くまで頑張っている涼香に、何かご褒美をあげたくてね。さあ、冷めないうちに紅茶と一緒に食べよう」
「ありがとう……! もう、本当に樹くんは私の好きなものを何でも知っているんだから……」
涼香は嬉しそうに微笑むと、一口タルトを頬張り、その美味しさに「ん〜っ」と目を細めて幸せそうに身をよじらせた。
かつて高校時代、孤高の「氷山姫」として周囲から一目を置かれ、自分の感情を表に出すことがなかった彼女が、今では樹の前でだけ、こうして感情を隠さずに素直な表情を見せてくれる。その存在そのものが、樹にとって何よりの癒やしであり、誇りだった。
「ねえ、樹くん。私ね……最近、すごく感じることがあるの」
紅茶を一口含んだ涼香が、マグカップを両手で大切そうに包み込みながら、優しく呟いた。
「何だい?」
「以前の私なら、こんなにたくさんの仕事を抱えたら、きっと一人でカリカリして、勝手にプレッシャーに潰れそうになっていたと思うの。……でもね、今は全然平気なの。どんなに忙しくても、家に帰ってくればあなたがいてくれる。『おかえり』って笑顔で迎えてくれて、温かいお茶を淹れてくれて、私の話を聞いてくれる……。それだけで、胸の奥の重荷がすーっと消えていくの」
涼香はそっと手を伸ばし、テーブルの上に置かれた樹の手に自分の指を絡めた。
「私の居場所は、ここにあるんだなって。あなたと二人で作るこの場所があるから、私は外でいくらでも強くなれるの。……全部、樹くんのおかげよ」
「涼香……。僕の方こそだよ。君が隣にいてくれるから、僕は自分の限界を超えて頑張れるんだ。僕たちの関係は、お互いに支え合ってできているんだよ」
樹が微笑み返すと、涼香の目元に温かな涙が溜まり、ぽろりと一筋の雫が頬を伝った。
「っ……! もう、どうしてすぐに感動させるようなことを言うの……っ。私、最近樹くんの前だと涙腺が弱くなっちゃって……」
涼香は照れ隠しに空いた手で目元を拭うと、そのまま椅子から立ち上がり、樹の膝の上にちょこんと腰を下ろした。ゆったりとした部屋着の裾から伸びる白皙の脚が、樹の腿に触れる。
「……涼香?」
「今日は……私を甘やかしてほしいの。ずっと忙しくて、あなたとゆっくり触れ合えなかったから……寂しかったんだから」
涼香は樹の首元に両腕を回し、耳元で甘く吐息を漏らした。普段の凛とした姿からは想像もつかないほど、素直で愛くるしい甘え方だった。
樹の胸の奥で、カチリと何かが外れる音がした。
「……後悔しない?」
「後悔なんて……するわけないでしょう? 私は、あなたの妻なのよ……?」
樹は静かに涼香の細い腰を抱き抱えると、そのまま彼女を抱き上げて寝室へと向かった。
……
カーテンを閉め切った寝室には、春の柔らかい光がうっすらと差し込み、室内を神秘的な茜色に染めていた。
ベッドの上に優しく降ろされた涼香は、乱れた長髪をまくらに散らしながら、上目遣いで樹を見つめていた。その頬は熟した桃のように赤く染まり、琥珀色の瞳は潤んで情熱の光を宿している。
「……樹くん……」
「涼香……大好きだ。世界で一番、愛している」
樹が重ね合わせた唇から、熱い情熱が溢れ出していく。
二人で過ごした冬の寒さを乗り越え、誓い合った永遠の愛。お互いの肌と肌が直接触れ合うたびに、体温以上の熱気が二人を包み込み、刻む鼓動がひとつに重なっていく。
「ん……っ……ツキ……っ……好き……もっと……強く抱きしめて……っ」
指と指をきつく絡め合い、互いの存在を確かめ合うように深まっていく愛の音色。
窓の外では、春の訪れを告げる優しい風が吹き抜け、満開を控えた桜の枝を静かに揺らしていた。
……
それから数時間が過ぎ、夕暮れのグラデーションが空を染める頃。
ベッドの中で、樹の腕に頭を預けた涼香は、規則正しい静かな寝息を立てて眠っていた。その顔には、一切の不安も迷いもない、満ち足りた幸せな笑みが浮かんでいる。
樹は彼女の柔らかい頬にそっと指先で触れ、愛おしそうに髪を撫でろした。
(春が来れば、新しい毎日が始まる。……どんなに忙しくなっても、どんな試練が訪れても、僕たちはこの部屋で、二人で手を取り合って生きていくんだ)
左手の薬指に輝く指輪が、夕日の光を受けてキラリと輝いた。
冬を乗り越え、芽吹いた絆は、今まさに満開の春に向かって、より深く、より強く咲き誇ろうとしていた——。




