春の芽吹きと、新しい絆のカタチ
箱根への新婚旅行から戻って数週間が経ち、本郷のマンションの窓から見える街並みも、どこか冬の硬さが解けて少しずつ春の匂いを含んだ風が吹き抜けるようになっていた。
二月の中旬。大学の春休みに突入した二人は、普段よりもゆっくりとした時間を過ごしていた。樹はリビングのテーブルで専門書のページをめくり、隣では涼香が真剣な表情でPCに向かい、新学期に向けた学生会の引継ぎ資料やゼミの論文構想をまとめていた。
「ふう……少し根を詰めすぎちゃったかしら」
涼香が小さな溜息をつきながら、両手を上に伸ばしてぐーっと背伸びをした。ゆったりとした薄手のニットの裾が少し持ち上がり、引き締まったウエストの曲線が覗く。
「お疲れ様、涼香。温かいハーブティーでも淹れようか?」
「ええ、ありがとう樹くん。……あ、カモミールがいいな」
樹がキッチンへ向かい、お湯を沸かしていると、涼香がノートPCを開いたまま椅子ごとくるりと向きを変え、樹の背中に視線を送った。
「ねえ、樹くん。ちょっと……相談があるのだけれど」
「ん? なにい? 予約していた旅行の件か何か?」
「ううん、そうじゃなくて……『これからのこと』について、よ」
樹がマグカップを二つ手に戻ってくると、涼香は少し真面目な、けれどどこか柔らかい表情でカップを受け取り、一口含んだ。
「実はね、春から始まる新学期……私、ゼミの代表を務めることになったの。それと同時に、OGとして学生会のサポートも続けることになって……今まで以上に大学で過ごす時間が増えそうなの」
「そっか。涼香ならきっと優秀なゼミ代表になれるよ。応援するよ」
樹が笑顔で答えると、涼香は琥珀色の瞳を少し揺らし、自分の膝の上でカップをキュッと握りしめた。
「嬉しい……けれどね、心配なの。私が忙しくなったら、この家での時間……あなたと一緒に過ごす時間が減ってしまうんじゃないかって。それに、家事の負担が全部樹くんにかかってしまうのも申し訳なくて……」
涼香の言葉に含まれた不安と優しさを感じ取り、樹は彼女の隣に腰を下ろすと、その小さく温かい手を包み込むように握った。
「涼香、そんな心配しなくていいんだよ。僕だって春からは新しい講義が増えるし、お互い忙しくなるのは最初から分かっていたことだろう? 家事だって、二人で分担すればいい。僕たちのルールは『無理をせず、二人で支え合うこと』なんだから」
「樹くん……」
「それにね、涼香が自分のやりたいことに向かって頑張っている姿を見るのが、僕の一番の励みなんだ。だから、遠慮なんてしないで全力でやっておいで。僕がちゃんと、ここ(家)で待っているから」
「……っ……もう、あなたって人は……どうしてそんなに私を甘やかすのが上手なの……っ」
涼香の目元にじんわりと涙が浮かぶ。彼女はカップをテーブルに置くと、吸い寄せられるように樹の首元に抱きつき、その肩に顔をうずめた。
かつて高校時代、誰にも頼れず一人で完璧であることを強いてきた「氷山姫」は、もうどこにもいない。いま樹の腕の中にいるのは、素直に弱音を吐き、全力で自分を信頼してくれる愛しい妻だった。
「私ね……樹くんがそうやって背中を押してくれるから、どんなことでも頑張れるの。……大好きよ、樹くん。世界で一番、愛してるわ」
「僕もだよ、涼香。一生かけて、君を支え続けるよ」
二人は静かに唇を重ね合わせた。ハーブティーの甘い香りと、お互いの柔らかな体温が、春を待つリビングいっぱいに広上がっていく。
……
その週末、二人は久しぶりに二人で買い出しを兼ねて、新緑の気配が漂う上野公園へと散歩に出かけた。
コートのポケットの中で手を繋ぎながら歩く道すがら、街の至る所で梅の花が咲き誇り、ほのかな甘い香りを漂わせている。
「見て、樹くん! あの梅、もうあんなにきれいに咲いているわ」
涼香が子供のように目を輝かせ、満開の白梅を指差した。
「本当だね。もう少ししたら、今度は桜の季節になる。……去年の春、僕たちが大学の入学式で一緒に歩いた日のことを思い出すよ」
「ええ……あの時はまだ、お互いに『先輩と後輩』としての距離感を探り探りだったわね。まさか一年後に、こうして同じ指輪を嵌めて歩いているなんて……人生って、本当に分からないものね」
涼香は愛おしそうに自分の左手薬指に輝くプラチナリングを見つめ、それから樹の指輪へと視線を移した。
「でもね、私……今のこの毎日が、人生で一番幸せ。過去の私が今の私を見たら、きっと羨ましがって腰を抜かすわね」
「はは、確かにね。あの頃の涼香先輩は、僕が挨拶しただけで『……何か用?』って冷たい視線を投げてきたもの」
「も、もう! 過去のいじわるな発言を引っ張り出さないでよ! あれは……あなたのことが気になりすぎて、どう接していいか分からなかっただけなんだから……っ!」
赤面してぽかぽかと樹の腕を叩く涼香。その愛らしいリアクションに、樹は思わず声を上げて笑ってしまった。
公園のベンチに腰掛け、温かい缶コーヒーを飲みながら、二人はこれからの未来について語り合った。
大学を卒業した後のこと。
いつか建てるかもしれない、小さなお庭のある家のこと。
そして、もう少し先になるかもしれないけれど、家族が増えた時のこと——。
「どんな未来が待っていても、樹くんとなら全部素晴らしい思い出に変えられる気がするの」
「ああ。僕たちの物語は、まだまだ始まったばかりだからね」
風が吹き抜け、散り際の花びらが二人の頭上にひらひらと舞い落ちる。
季節は巡り、冬から春へ。
しかし、互いを想い合う熱い絆と甘い愛は、どんな季節が来ようとも決して変わることはない。
新婚夫婦として迎える初めての春の足音を聞きながら、橘樹と夏目涼香は、しっかりと手を繋ぎ直し、二人で歩む未来への一歩を力強く踏み出したのだった——。




