春の兆しと、秘密の小旅行
第六十六話:春の兆しと、秘密の小旅行
初詣から数日が過ぎ、正月休みの喧騒も落ち着きを見せ始めた頃。本郷のマンションには、再び穏やかで愛おしい二人の日常が戻っていた。
この日、大学の冬休み課題と向き合っていた樹は、リビングのデスクでペンを走らせていた。隣では、大学のオンライン講義の予習を終えた涼香が、膝の上に猫のクッションを乗せ、真剣な眼差しでノートパソコンの画面を見つめている。
「涼香、何か面白いものでも見つけたのかい?」
樹がノートを閉じ、淹れたてのカフェオレを二つのマグカップに注ぎながら尋ねると、涼香は待っていましたと言わんばかりにパッと表情を明るくさせた。
「樹くん、これを見て! 大学院の先輩から教えてもらったんだけど……箱根の奥にある、離れ付きの温泉旅館なの」
画面には、雪景色に包まれた風情ある木造建築と、湯気が立ち上るプライベート露天風呂の写真が映し出されていた。
「温泉か……いいなぁ。最近、お互い課題や家事で少し慌ただしかったし、ゆっくり羽を伸ばしたいね」
「でしょう? それにね……ここ、客室露天風呂がついているの。……だから、その……他の人を気にしないで、ゆっくりお湯に入れると思って……」
涼香は最後の方の言葉を急に小声にし、頬をほんのりと桃色に染めた。
「そっか。客室露天風呂なら、周りを気にせず二人きりで過ごせるね」
「っ……! 樹くん、またそうやってわざと変な言い方をするんだから! 私はただ、静かに温泉を楽しみたいだけよ!」
「はは、冗談だよ。でも、すごく素敵な場所だね。よし、次の週末、一泊二日で予約を入れてみようか。日頃の感謝も込めて、僕からのプレゼントだ」
「えっ……でも、費用が……」
「大丈夫。家庭教師のバイト代も貯まっているし、何より『大好きな妻』と過ごす思い出作りのためだもの。惜しむ理由なんてないよ」
「~っ! もう……『妻』って言葉、すっかり気に入っちゃって……」
涼香は恥ずかしそうに抗議しながらも、その瞳には隠しきれない歓喜と期待の色が満ち溢れていた。
……
週末。
小田急ロマンスカーの揺れに身を任せながら、窓の外の景色がビル街から徐々に豊かな自然と白銀の山々へと変わっていくのを、ふたりは並んで眺めていた。
座席の肘掛けの下で、ふたりの手はしっかりと結ばれている。
「電車で旅行なんて、あの沖縄の夏休み以来ね……」
「そうだね。あの頃はまだ『先輩と後輩』だったけれど、今は『夫と妻』か。なんだか不思議な感じがするよ」
「……不思議じゃないわ。あの頃からずっと、私はあなたに惹かれていたんだもの。ただ、自分の気持ちに素直になるのに、少し遠回りをしてしまったけれど……」
涼香は樹の肩にそっと頭を預け、小さく息をついた。
「でもね、後悔はしていないわ。遠回りをした分だけ、樹くんの優しさや大切さが、骨の瑞まで染み込むように分かったから」
「涼香……」
愛おしさが胸から溢れ出し、樹は繋いだ手にギュッと力を込めた。
箱根湯本駅に到着すると、山からの冷たい空気が頬を撫でた。送迎バスに揺られること二十分、深い木々に囲まれた隠れ家のような旅館『雪月花』に到着した。
通されたお部屋は、木の香りが清々しい和モダンな空間で、テラスからは美しい雪景色と、専用の檜風呂から立ち上る湯気が見えた。
「うわあ……! 樹くん、すごいわ! 本当に写真通り……ううん、写真以上にステキ!」
涼香はまるで少女のように瞳を輝かせ、テラスへと駆け寄っていった。上品な色合いの羽織を羽織り、雪景色を背景に佇む彼女の姿は、まるで一幅の絵画のように美しい。
「喜んでもらえてよかった。……じゃあ、夕食の前に、さっそくお風呂に入ろうか?」
「ええ! ……あっ、あの……樹くん?」
「ん?」
涼香はモジモジと着物の裾を握りしめ、上目遣いで樹を見つめた。
「……混浴、だから……一緒に入る……のよね?」
「え? あ、いや……嫌なら僕が後に……」
「嫌だなんて……言ってないでしょう……っ!」
涼香は赤面しながら樹の衣類をキュッと引っ張った。
「あなたと……一緒に入りたいから、ここに決めたんだから……バカ……」
消え入るような声で囁かれたその言葉は、どんな甘い言葉よりも樹の理性を揺さぶるのに十分だった。
湯煙がゆらゆらと舞う露天風呂。
しんしんと降り積もる雪の中、温かい湯に包まれながら重ね合わせる二人の体温。
新婚夫婦としての初めての旅は、冬の寒さを忘れさせるほど、甘く熱い温もりに満ち溢れようとしていた——。




