直前期の灯火と、二人だけのクリスマス
十二月二十四日、クリスマスイブ。
街中が華やかなイルミネーションと讃美歌の音色に包まれる中、都心にはピンと張り詰めた冬の冷気が漂っていた。
共通テストまであと三週間、そしてT大二次試験まであと二ヶ月。
受験生にとって最も過酷で、一刻の猶予も許されない『直前期』の冬がやってきていた。
新居の書房。
エアコンの暖房が静かに回る中、橘樹はデスクに覆いかぶさるようにして、T大の赤本(過去問集)と格闘していた。
カツカツカツカツ……!
シャーペンを握る指先にはタコができ、目の下にはうっすらと疲労の影が差している。
直前の東大プレ模試でも『A判定』を維持したものの、本番が近づくにつれて押し寄せるプレッシャーは想像を絶するものだった。
(……ここで一問でもミスしたら……本番でマークミスをしたら……)
焦りと緊張で、樹の呼吸がわずかに浅くなった、その時――
そっと、温かい手足が背中から包み込むように樹の体に寄り添ってきた。
「……樹くん。そこまでにしなさい」
耳元で聞こえたのは、甘く包み込むような夏目涼香の声だった。
涼香は樹の首元に両腕を優しく回すと、自分の頬を樹の冷たくなった頬にそっとすり寄せてきた。
「涼香……? でも、あと英語の長文を一本解き終えないと――」
「ダメよ。今日の勉強はおしまい。……だって今夜は、一年に一度の特別な夜だもの」
涼香は樹のペンを握る右手を優しく包み込むと、ペンをそっとデスクの上に置かせた。
ふわりと香る、彼女特有の甘い桃の香りと、浴衣風の部屋着から伝わる熱い体温。
涼香は樹の手を引っ張って立たせると、琥珀色の瞳を愛おしそうに輝かせた。
「さあ、リビングへ行きましょう? 頑張り屋さんの旦那様のために、私がとびっきりのパーティーを用意したの」
リビングのドアを開けた瞬間、樹は思わず息を呑んだ。
薄暗く落とされた照明の中、部屋の隅には色とりどりのオーナメントと優しい電飾が輝く大きなクリスマスツリー。
そしてテーブルの上には、涼香が大学の講義の合間を縫って作ってくれた手作りのローストチキン、彩り鮮やかなパイ、そして甘い苺が載ったホールケーキが並べられていた。
「これ……全部涼香が作ってくれたんですか!?」
「ええ! あなたが勉強に集中できるように、今日はお昼から腕に寄りによりをかけて作ったのよ」
涼香は嬉しそうに胸を張ると、樹を椅子へとエスコートし、二人で並んで腰掛けた。
グラスに注がれたシャンパン風のスパークリングジュース。
「「メリークリスマス!」」
カチン、とグラスを合わせる音が部屋に響く。
涼香が切り分けてくれたチキンを一口食べた樹の表情が、パッと解けほぐれた。
「……美味しい……! お肉がすごく柔らかくて、味が染みています……!」
「ふふ、良かった。……樹くん、最近ずっと根を詰めていたから、心配だったのよ。少しは肩の力が抜けたかしら?」
涼香は樹の隣で膝を突き合わせるように座り、樹の手を自分の両手で優しく包み込んだ。
一年前の今頃は、涼香自身が直前期のプレッシャーに押し潰されそうになりながら、樹の部屋で年越しそばを食べていた。
今度は自分が、愛する樹を支え、包み込む番。
「樹くん。あなたは本当に良くやってきたわ。偏差値も、模試の判定も……全部あなたが血の滲むような努力で掴み取ったものよ。だから……自分を信じて頂戴?」
「……涼香……」
「私が保証するわ。私の愛した橘樹という男は、絶対に本番で負けたりしないわ」
濁りのない、絶対的な信頼が込められた言葉。
樹の胸の奥に渦巻いていた不安や焦りが、温かい涙となってじんわりと溢れ出してきた。
「……ありがとう、涼香。……僕、絶対に合格してみせます……!」
夕食とケーキを楽しみ、お風呂を済ませた夜十一時。
ツリーの電飾だけが優しく揺れる、静かな寝室。
ふたりで選んだ大きなダブルベッドの中で、樹と涼香は一枚の掛け布団を被り、互いの体を密着させていた。
涼香は樹の胸元に顔を深く埋め、彼の首元に細い腕を回してきた。
「……ん……温かいわ、樹くん……」
「涼香……今夜もすごく近いです……っ」
「いいじゃない。クリスマスなんですもの。……それにね、頑張っている樹くんに、私から『聖夜の特別なプレゼント』をあげなくちゃ」
涼香はゆっくりと顔を上げると、暗がりの中で琥珀色の瞳を熱く濡らし、樹の唇をじっと見つめた。
部屋着の胸元が少しだけ寛ぎ、彼女の甘い体香と肌の温もりが樹の全身を麻痺させる。
「……プレゼントって……?」
「私よ。……私の心も、身体も、溢れる愛も……全部、今夜はあなただけのものよ」
涼香はそっと背伸びをし、樹の唇に自分の唇を深く、深々と重ね合わせた。
一度目はおでこに、愛おしさを込めたキス。
二度目は目元に、労いを込めたキス。
三度目は頬に、感謝を込めたキス。
そして四度目――ふたりの口づけは、息ができないほど深くて甘い、愛の誓いへと変わっていった。
「……ん……ふぁ……っ……樹くん……大好き……っ」
何度も角度を変え、熱い吐息を交わし合うふたり。
涼香は樹の髪に指を絡め、彼からの抱擁を全身で受け止めるように強く、強く抱きついてきた。
「来年の春……あのキャンパスで二人で歩く未来が、もうすぐそこまで来ているわ。……だから、最後まで私と一緒に駆け抜けましょうね、私の最愛の旦那様……」
「……はい! 絶対に……絶対に二人で笑って春を迎えましょう、涼香……!」
樹は力強く腕に力を込め、彼女の華奢な体を慈しむように深く抱きしめ返した。
ツリーの優しい光が二人を包み込む、温かく甘い聖なる夜。
いよいよやってくる決戦の春へ向けて、二人の固い純愛と誓いは、どこまでも力強く、気高く輝き続けるのだった。




