試練の冬と、勝利を誓う合格の口づけ
一月中旬、早朝の六時。
薄闇が残る東京の空からは、チラチラと儚い粉雪が舞い降りていた。
この日は、全国の受験生が一斉に運命の決戦へと挑む『大学入学共通テスト』の第一日目。
一年前、夏目涼香がプレッシャーに押し潰されそうになりながら挑んだあの舞台に、今度は橘樹が立つ日がやってきたのだった。
新居のベッドサイドで目覚まし時計が鳴る前に、樹は靜かに目を覚ました。
心臓がドクンドクンと早鐘を打っている。
どれだけ模試で A 判定を連発しようとも、本番の朝独特のピリッとした空気と緊張感は、容赦なく18歳の少年の肩に重くのしかかっていた。
(……いよいよ、今日なんだ。僕の一年間の努力が、涼香と誓った約束が……ここで試される)
樹がベッドから起き上がろうとした、その時――
「……ふふ、おはよう、樹くん」
隣のスペースから、ふわりと甘い桃の香りが漂ってきた。
樹より早く起きていた涼香が、あたたかい蒸気アイマスクと温かいタオルを手に、優しい琥珀色の瞳で樹を見つめていた。
薄手のニットの部屋着から覗く白い肌と、毎朝変わらない愛おしい笑顔。
涼香は樹の隣に腰掛けると、温かいタオルで樹の顔と手を優しく包み込むように拭ってくれた。
「り、涼香!? いつから起きていたんですか!?」
「五時からよ。……一年前、あなたが私にしてくれたことを、覚えているかしら?」
涼香はクスッと愛おしそうに微笑むと、樹の手を自分の両手でぎゅっと握りしめた。
「あの朝、あなたが作ってくれた温かいお味噌汁と勝ち飯のおにぎり……そして、あの力強い抱擁があったから、私は一切の迷いなくT大の門をくぐることができたわ。今度は、私があなたに最高のパワーをあげる番よ」
ダイニングルームに向かうと、食卓には湯気が立ち上る味噌汁と、ツヤツヤの炊き立てご飯、そして樹の好物である甘い玉子焼きと鮭の塩焼きが綺麗に並べられていた。
「さあ、しっかり召し上がりなさい。脳のエネルギーを極限まで高める特製メニューよ」
「……いただきます!」
樹が一口味噌汁を口に含むと、出汁の優しい旨味が全身に染み渡り、緊張でカチコチに固まっていた胃と心が、みるみるうちに解けほぐれていくのが分かった。
「……美味しい……っ! 涼香のお味噌汁、本当に世界一美味しいです……!」
「ふふ、良かった。……私が毎日毎日、心を込めて作ってきたお味だもの。あなたの血となり肉となって、今日の試験で絶対にあなたを守ってくれるわ」
涼香は樹の向かいに座り、樹が美味しそうに食べる姿を、まるで宝物を見るような温かい眼差しで見つめていた。
午前七時十五分。出発の刻。
厚手のダッフルコートを着込み、受験票と筆記用具が入ったリュックを背負った樹が、玄關でスニーカーの紐を結び終えた。
ドアノブに手をかけようとしたその時――
「樹くん、待ちなさい」
涼香が静かな、けれど強い声で樹を呼び止めた。
振り返ると、涼香の手には紺色のシルクのリボンで結ばれた、小ぶりで美しいお守りが握られていた。
お守りの中央には、樹が冬の海で涼香に贈ったネックレスと同じ、深い藍色に輝くサファイアの小さなルース(裸石)が埋め込まれている。
「これは……?」
「私がこの一ヶ月間、毎夜あなたの合格を祈って手縫いで作ったお守りよ。……このサファイアは、私たちの絆の証」
涼香は樹の元へしとやかに歩み寄ると、そのお守りを樹のコートの胸ポケットへ優しく忍ばせた。
「あなたが迷いそうになった時、焦りそうになった時……胸のここに手を当てて頂戴。私がいつでも、あなたの隣で寄り添っているわ」
涼香の手の温もりとお守りの重みが、樹の胸の奥に確かな自信の火を点した。
「涼香……ありがとう……っ!」
「……そして、もうひとつ」
涼香は樹の首元に細い腕を回すと、つま先立ちをして、樹のおでこに優しく、深々と自分の唇を重ね合わせた。
ちゅ……。
雪の降る静かな玄關に響く、甘く甘美な誓いの音。
涼香の温かい吐息とおでこから伝わる熱気が、樹の脳裏の緊張を完全に吹き飛ばした。
「……必勝の魔法よ。私の愛する旦那様」
涼香はおでこを離すと、熱く潤んだ琥珀色の瞳で樹の瞳をまっすぐに見つめ、いたずらっぽく小悪魔的に微笑んだ。
「満点を取ってきなさい。……無事に一日目が終わって帰ってきたら、今夜はベッドの中で……私の『とびきり甘い全身のご褒美』をあげるわね?」
「っ……! 涼香……!?」
耳まで真っ赤になった樹を見て、涼香は満足そうにクスッと笑い、樹の背中をポンと力強く叩いた。
「行ってらっしゃい、樹くん! 私の自慢のパートナー!」
「……はい! 行ってきます、涼香……っ!!」
粉雪が舞う朝の街へと飛び出していく樹。
その背中は、一年前の気弱だった少年の面影はなく、愛する人を守り、同じ高みへと駆け上がる「一人の男」の堂々たる気配に満ちあふれていた。
遠ざかる樹の背中を、玄関のドア越しに愛おしそうに見送る涼香。
その胸元で輝くサファイアのように、二人の純愛と合格への絶対の確信は、冬の澄んだ空の下でどこまでも強く、気高く輝き続けるのだった。




