涼香先生の特訓と、夏の夜の甘いご褒美
七月中旬、熱気を帯びた夏風がベランダの風鈴をチリンと揺らす季節。
高校三年の受験生にとって最初の大きな天王山となる『夏期東大即応模試』を数日後に控え、橘樹の受験勉強は佳境を迎れていた。
エアコンが心地よく効いた新居の書房。
大きな木製デスクの上には、T大の過去問集や難関大向けの数学問題集が所狭しと広げられていた。
「……んー、この極限の計算……ここで置換積分を使うのか……?」
樹が唸りながらシャーペンを走らせていると、隣からふわりと甘い桃の香りが漂ってきた。
「甘いわね、樹くん。そこはただ置換するだけじゃ、計算量が膨大になってタイムオーバーよ」
そこに立っていたのは、眼鏡をかけ、白のノースリーブニットに短いデニムパンツ姿の夏目涼香だった。
涼香はデスクに両手をつき、樹の顔のすぐ横まで顔を近づけると、胸元の柔らかな感触が樹の腕にほんのりと触れる距離で問題集を覗き込んだ。
「ここを見て頂戴。この対称性に気づけば、たった三行でエレガントに解けるわ」
「うぐっ……! り、涼香……近いです……っ! あと、その格好は刺激が強すぎます……!」
眼鏡越しに覗く美しすぎる琥珀色の瞳と、薄着から覗く白い肌。
樹が真っ赤になって身を引こうとすると、涼香はフッと悪戯っぽく微笑み、樹の椅子の肘掛けを両手で挟むようにして彼を逃がさない姿勢をとった。
「なにかしら? 私はあなたの『専属家庭教師』の涼香先生よ? 先生の指導を集中して受けなさい」
「家庭教師って……そんな密着して教える先生はいませんよ……っ!」
「いいじゃない、ふたりきりの秘密の補習なんだから。……それとも、こんなに可愛い先生が隣にいたら、集中できないかしら?」
涼香は樹の耳元に顔を寄せ、くすぐったい吐息を吹きかけながら甘く囁いた。
T大での難解な講義をすべて完璧に修めてきた涼香の教え方は、驚くほど的確で分かりやすい。かつて全校生徒の憧れだった『氷山姫』の知性と、樹の前だけで解禁される『甘々なお嫁さん』の顔が同居した、極上の家庭教師。
「さあ、私の教えた解法で、もう一度この問四を解いてみなさい。制限時間は十五分よ」
「……っ! はい! やってみせます!」
カツカツカツ……!
静かな書房に、樹が夢中でペンを走らせる音だけが響く。
涼香は隣の椅子に腰掛け、頬杖をつきながら、必死に問題と向き合う樹の横顔を愛おしそうに見つめていた。
自分のために、同じキャンパスに立つために、脇目も振らず努力を重ねる年下の旦那様。
その真摯な瞳を見つめているだけで、涼香の胸の奥からは熱い愛おしさがこみ上げてくる。
(……樹くん。あなたは本当に凄いわ。私が教えた吸収速度も、成長の勢いも……本気で私を追いかけてきてくれているのね)
十五分後。
「……できた! 涼香、解けました! 答えは『e^2 - 1』です!」
樹が答案を差し出すと、涼香は眼鏡を外し、赤ペンで大きな花マルを答案用紙に書き込んだ。
「……正解よ! 完璧な証明ね、樹くん!」
「やった……っ! T大レベルの難問を時間内に解けた……!」
樹が歓喜の声を上げたその瞬間――涼香は樹の首元に両腕を回し、そのまま彼の膝の上にちょこんと乗っかるように抱きついてきた。
「きゃっ……!? 涼香!?」
「ふふ、合格よ。……よく頑張ったわね、私の優秀な生徒さん」
涼香は樹の首元に顔をすり寄せ、クスクスと嬉しそうに笑った。
「涼香……重たくないですけど、膝の上は……っ」
「いいじゃない。約束していたでしょう? 難問を自力で解けたら……『特別なご褒美』をあげるって」
涼香は樹の胸の上で顔を上げると、熱く潤んだ琥珀色の瞳で樹の唇をじっと見つめた。
メガネを外した素顔の涼香。
夏の夜の熱気と、彼女の甘い体香が混ざり合い、書房の空気は一瞬で甘く濃厚なものへと変化する。
「……ご褒美って……まさか……」
「ええ。……私の全存在を込めた、極上のエネルギー補給よ」
涼香はそっと背伸びをし、樹の唇に自分の唇をゆっくりと重ね合わせた。
一度目はおでこに、ちゅ。
二度目は右の頬に、ちゅ。
三度目は左の頬に、ちゅ。
そして四度目――ふたりの唇が深々と重なり合った。
「……ん……ふあ……っ」
吐息が混ざり合い、何度も角度を変えて重ねられる甘い口づけ。
涼香は樹の髪に細い指先を絡め、彼からの愛を全身で受け止めるように強く抱きしめてきた。
「……樹くん……大好き……。あなたの努力も、かっこいいところも……全部大好きよ……」
接吻を解いた涼香の頬は、熟した桃のように鮮やかに赤らみ、瞳はうっとりと情熱に濡れていた。
「……涼香……っ」
「ふふ、これで夏の模試の判定も『A判定』間違いなしね。……さあ、次は英語の過去問に取りかかるわよ? ……最後まで私についてきなさいね、私の愛しい旦那様」
涼香は樹の首元に小悪魔的に微笑むと、再び彼を力強く抱きしめ返した。
風鈴の涼やかな音が響く夏の日。
二人の甘く情熱的な同居勉強生活は、合格という春の戴冠へ向けて、どこまでも甘く、力強く加速していくのだった。




