運命の合格発表と、桜色の抱擁
三月十日、午前十一時五十分。
暖かな春の陽気が差し込む橘樹の部屋は、息が詰まるほどの静寂に包まれていた。
正午。それは東京大学のWeb合格発表が行われる運命の時刻。
デスクの上に置かれたパソコンの画面には、T大の合格発表特設サイトが開かれており、画面右下の時計が刻一刻と十二時へ向かって秒針を刻んでいた。
「……はぁ……ふぅ……」
こたつの前に座る夏目涼香は、自分の膝の上で両手を強く握りしめていた。
かつて全校生徒から『氷山姫』と恐れられた彼女の凛とした面影はどこにもなく、その指先は寒くもないのに小さく震え、琥珀色の瞳は不安と緊張で大きく揺れていた。
共通テストでの高得点、二次試験での手応え。
客観的に見れば合格の可能性は極めて高い。それでも、最高峰の難関突破を目指してきた受験生にとって、結果を見る直前の恐怖は別格だった。
もし、自分の番号がなかったら――。
これまで積み上げてきた努力が、樹と誓った未来が、一瞬で途絶えてしまうかもしれないという絶望的な想像が、彼女の胸を締め付ける。
その時、涼香の冷たくなった左手を、温かく大きな手が優しく包み込んだ。
「涼香」
隣に座る樹だった。
樹は涼香の手をぎゅっと握り返すと、まっすぐな瞳で彼女を見つめた。
「手、すごく冷たいです。……大丈夫ですよ、涼香」
「樹くん……私……すごく怖いの……。もし……もし駄目だったら……」
「駄目なわけありません。涼香がどれだけの思いで勉強してきたか、どれだけの涙を流して努力してきたか……僕が一番よく知っています。涼香の努力は、絶対に裏切りません」
樹の濁りのない声と、手に伝わってくる力強い体温。
涼香は溢れそうになる涙を必死にこらえながら、樹の手に自分の右手を重ねた。
「……ええ。あなたが付いていてくれるんだもの……私、逃げないわ」
カチッ、と壁の時計の針が十二時を指し示した。
「……時間になりましたね」
樹が静かに呟く。
涼香は息を呑み、樹の手を破れんばかりの力で握りしめた。
樹がマウスを操作し、更新ボタン(F5)を押す。
クルクルと回るロードのアイコン。数秒の停滞が、まるで数時間にも感じられる。
そして――画面が切り替わった。
文科一類の合格者受験番号一覧。
ずらりと並ぶ数字の列。
涼香は目を細め、自分の受験番号――『10042』を探す。
上から下へ。左から右へ。
10038……
10039……
10040……
一瞬、心臓が跳ね上がり、息が止まった。
10042――。
確かに、そこにあった。
整然と並ぶ数字の中に、涼香がこの一年間、模試や参考書に書き続けてきた大切な番号が、鮮やかに刻まれていた。
「……あ……」
涼香の口から、小さな掠れた声が漏れた。
「樹くん……これ……私……」
樹も画面を二度、三度と見返し、そして一気に表情を輝かせた。
「涼香……! あります! 10042番! 合格です! T大合格ですよ!!」
樹の歓声が部屋に響き渡った瞬間、涼香の目から大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「……受かった……! 私……合格したのね……っ!」
「はい! おめでとうございます、涼香……っ!」
涼香は立ち上がると同時に、こたつを飛び越える勢いで樹の胸元へ全力で飛び込んでいった。
「きゃっ……!? 涼香!?」
激しい衝撃とともに、二人は部屋の絨毯の上へともつれ込むように倒れ込んだ。
涼香は樹の上に覆いかぶさる格好のまま、彼の首元に顔をうずめ、声を上げて泣きじゃくった。
「ううっ……! 樹くん……! 樹くん……っ! 良かった……! 良かったわ……っ!」
「涼香……! 本当に、本当によく頑張りましたね……!」
樹も胸が熱くなり、彼女の華奢な背中に回した腕に全力で力を込めた。
合格の喜び、過酷な受験生活からの解放感、そして何より――大好きな彼と同じ未来へ進めるという圧倒的な幸福感。
涼香の涙は止まらず、樹のシャツの胸元をどんどん濡らしていく。
「私ね……っ! 途中で何度も挫けそうになったの……! でもね……あなたがくれた手紙も、御守りも、ネックレスも……全部が私の支えだったの……!」
涼香は樹の胸から顔を上げると、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、愛おしそうに樹を見つめた。
「あなたがいてくれたから……私、ここまで来られたのよ……! ありがとう……樹くん……! 大好き……大好きよ……っ!」
溢れ出す愛の告白。
樹は優しく微笑むと、彼女の涙で濡れた頬を両手で優しく包み込み、指先で涙を拭ってやった。
「僕の方こそ、ありがとうございます、涼香。……こんなに格好よくて、気高くて、素敵な彼女の隣にいられて……僕は世界で一番幸せ者です」
二人は見つめ合い、どちらからともなく顔を寄せた。
ゆっくりと重ね合わされる唇。
これまでのどのキスよりも深くて、甘くて、温かい――試練を乗り越えた二人だけの勝利のキス。
何度も、何度も唇を重ね、互いの体温と喜びを確かめ合った。
しばらくして、ようやく涙が収まった涼香は、樹の胸の上にちょこんと顎を乗せ、紅潮した頬で上目遣いに樹を見つめた。
「ねえ、樹くん」
「はい、涼香」
「合格したら……『秘密のお願い』を聞いてくれるって約束、覚悟はできているかしら?」
涼香の琥珀色の瞳が、甘く悪戯っぽい光を帯びる。
樹の心臓がどくんと跳ね上がった。
「あ……温泉旅行、ですね!」
「ええ。受験生としての拘束は、今日で全部おしまい。……これからは、あなたの時間を全部私に頂戴ね?」
涼香は樹の首元に擦り寄るように擦り寄り、耳元で甘く囁いた。
「誰の目も気にしない……二人きりの箱根の高級温泉旅館。客室露天風呂付きのお部屋を……もうリサーチしてあるの」
「えっ、もう調べてたんですか!?」
「当たり前じゃない。……あなたと二人で、朝から晩まで抱き合いながら甘えるのが……私の最大の目標だったんだから」
ふふっと美しく笑う涼香。
その顔には、プレッシャーから解き放たれた『極上の甘えん坊な彼女』の素顔が完全に戻っていた。
樹は苦笑しながらも、愛おしさに胸を焦がし、彼女の腰をぎゅっと抱き返した。
「分かりました。僕の生徒会の予算……じゃなくて、アルバイトで貯めたお小遣いを全部投じて、最高の旅行にしましょう!」
「ええ! 約束よ、樹くん!」
窓の外には、春の訪れを告げる桜の蕾が、暖かな日差しを受けて膨らみ始めていた。
氷山姫の長い冬が明け、二人だけの甘く輝かしい『春』が、今まさに満開の時を迎えようとしていた。




