T大二次試験と、覚醒の氷山姫
二月二十五日、午前八時。
日本最高峰の頭脳が集う、東京大学・本郷キャンパス。
赤門をくぐる受験生たちの表情は例外なく硬く、緊張で張り詰めた気がキャンパス全体を支配していた。
夏目涼香は、首元に輝く小さな藍色のサファイア――樹が冬の海で贈ってくれたネックレスを、服の上からそっと指先で確かめた。
(……樹くん。私、行ってきたわね)
カバンには樹が徹夜で縫ってくれた櫻色の御守り。
胸元には未來を約束する項鍊。
冷たい冬の風が吹き抜ける中、涼香の琥珀色の瞳には、恐怖も迷いも一切存在しなかった。
午前九時半。第一次科目・國語(現代文・古文・漢文)。
講堂内に解答開始の鐘が重々しく響き渡る。
一齊に紙をめくる羽音が教室中に散らばった。
配布された問題冊子を目にした瞬間、週圍の幾人かの試驗生から極小の息を吞む音漏れた。例年以上の難化、超難問の記述題目。
しかし、涼香の心は湖の面のように靜まり返っていた。
(……焦る必要なんてない。樹くんと幾度も夜を明かして解き明かした問題に比べたら……!)
涼香の頭腦が、恐ろしいほどの速度で回力し始める。
筆先が紙面を滑る音——カツカツカツカツ!
かつて聖華高校で誰もが恐れ、憧れた『冰山姬』の極致の集中力。
難解な文章の論理結構が、まるで透明な結晶のように涼香の腦裏で解き明かされていく。
胸元のサファイアが、體溫を吸ってほんのりと溫かい。
(大丈夫。樹くんが、私の中にいる)
二日間にわたる熾烈極まる極限の試驗。
涼香は一度も筆を止めることなく、すべての答案用紙を美しく、完璧な解法で埋め盡くしていった。
二日目の夕方。試驗終了を告げる最後の鐘が鳴り響いた。
筆記用具を置く音が重なり、試驗室全體に重厚な解放感と疲迫が流れる。
涼香は深く、靜かに息を吐き出すと、最後にもう一度胸元の項鍊を愛おしそうに握りしめた。
「……やりきったわ。私の全部を……答案に捧げてきた」
キャンパスの外に出ると、空からは細かな白雪が舞い散り始めていた。
疲勞で少し足取りが重い涼香が、赤門の方向へ步みを進めると――
雪の舞う赤門の傍らで、吐く息を白くしながら、凍える手で溫かい罐黑咖啡をふたつ握りしめて立っている影があった。
「……樹くん……!」
涼香の琥珀色の瞳が驚きで大きく見開かれた。
樹は涼香の姿を見つけると、ぱっと表情を崩し、雪を撥ね飛ばすように駆け寄ってきた。
「涼香……! お疲れ様です……っ!」
「な……なんでここに……!? あなた、今日學校があるでしょう……!?」
「放課後、速攻で飛んできました。涼香が一番に試驗場から出てくるとき……絶対に僕が一番に『頑張ったね』って言いたかったから」
雪で少し濡れた髪と、寒さで赤くなった耳。
樹は照れくさそうに笑うと、握っていた溫かい罐咖啡を涼香の冷たい手へ手渡した。
その瞬間、涼香の目から大粒の涙がぽろぽろと溢れ出した。
「涼香……!?」
涼香は手中的咖啡をバッグに押し込むと、積もった雪を蹴り散らして樹の首元へと全力で飛びついた。
「ううっ……! 樹くん……! 樹くん……っ!」
「涼香……!」
樹は倒れそうになりながらも、彼女の細い腰をしっかりと抱きとめ、抱きかかえるように兩腕に力を込めた。
「苦しかった……っ! 難しくて、頭が割れそうだった……! でもね……あなたがくれた項鍊と御守りを握るたびに……あなたの聲が聞こえたの……!」
涼香は樹の首元に顔をうずめ、溢れ出る愛おしさと感謝を全身でぶつけた。
「やりきったわ……! 私……世界で一番カッコいい、あなたの自慢の女友達(將來の妻)として……恥ずかしくない戰いをしてきたわ……!」
樹は胸が熱くなり、彼女の柔らかい黑髪に深々と顔をうずめた。
「知っています。……涼香は世界で一番格好よくて、美麗で、僕の誇りです」
舞い散る雪の中、二人は誰の目も気にせず、力強く抱き合い続けた。
涼香は涙を拭うと、樹の胸元から顔を上げ、紅潮した頬で彼を見つめた。
「……樹くん。合格發表は……三月十日よ」
「はい」
「私……絶対に合格してみせる。だから……発表が終わったら、あの約束……覚悟しておきなさいね?」
涼香の琥珀色の瞳に宿る、鮮亮で熱い愛の光。
樹は愛おしさに胸を焦がしながら、彼女の唇へと優しく、深々と唇を重ねた。
雪の舞うT大赤門前。
過酷な試驗を乘り越えた二人の純愛は、解けていく雪のように甘く、春の芽吹きに向かって力強く開花しようとしていた。




