決戦前夜と、冬の海の誓い
共通テストで目標を大きく上回る高得点を叩き出した夏目涼香は、いよいよ最大の難関である『T大二次試験』の本番を数日後に控えていた。
連日の猛勉強による疲労と、絶対に失敗できないという極限のプレッシャー。
涼香の表情にはどこか影が差し、唇の赤みも少し失われつつあった。
「……ふぅ……」
日曜日の午後、橘樹の部屋で過去問を解いていた涼香が、小さく息を吐いてペンを置いた。
樹は温かい柚子茶を入れたマグカップを彼女の前に静かに置くと、そっとその肩に手を置いた。
「涼香。今日の勉強はここまでにしましょう」
「え……? でも、まだ英作文の解き直しが――」
「ダメです。今の涼香は根詰めすぎです。……着替えてください。少し出かけましょう」
「出かけるって……どこへ?」
樹は悪戯っぽく微笑むと、彼女のカーディガンを手に取って言った。
「秘密です。僕に任せてください」
二人が電車に揺られてやってきたのは、都心から少し離れた静かな沿岸の街だった。
改札を出て坂道を下ると、目の前に広大な冬の相模湾が広がっていた。
夏場のにぎやかさが嘘のように静まり返った砂浜に、澄み切った冬空と、夕日に照らされてキラキラと輝く波が寄せ波を打っている。
「……海……?」
風に長い髪をなびかせながら、涼香は琥珀色の瞳を丸くした。
「はい。緊張でコチコチになった涼香の心を、ほぐしたかったんです。波の音って、リラックス効果があるんですよ」
樹はポケットから出したマフラーを、涼香の首元に優しく巻き直してやった。
涼香は砂浜へ一歩踏み出すと、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……すごい……。潮の香りと波の音……すごく心が落ち着いていくわ……」
二人は波打ち際に沿って、足跡を並べながらゆっくりと歩いた。
キュッキュッと砂を踏みしめる音と、寄せては返す波の音だけが静かに響く。
「……樹くん」
「はい?」
「私ね……怖いの」
涼香がふと足を止め、海を見つめたままポツリと呟いた。
「共通テストでいくら良い点を取れても、T大の二次試験は別格よ。一問のミスで落とされる世界……。もし……もし私が落ちてしまったら……あなたと約束した未来も、あの温泉旅行も、全部消えてしまうんじゃないかって……」
震える涼香の声。
強がりで完璧主義な『氷山姫』が、初めて見せた弱音だった。
樹は無言のまま涼香の前に立ち、彼女の華奢な体を強く、けれど包み込むように抱きしめた。
「樹くん……?」
「涼香。忘れないでください。僕が好きなのは『T大に通う夏目涼香』じゃありません。『努力家で、優しくて、僕の料理を美味しそうに食べてくれる夏目涼香』です」
樹は涼香の肩を優しく掴み、まっすぐ目を見つめた。
「結果がどうなろうと、僕が涼香を愛する気持ちは一微塵も変わりません。僕たちの未来は、試験の結果ごときで消えたりしませんよ」
「……あ……」
樹はポケットから小さな青い箱を取り出し、涼香の手のひらに載せた。
「これ……開けてみてください」
涼香が戸惑いながらリボンを解き、箱を開けると――そこには、細いシルバーのチェーンに、小さな星と一粒の天然石があしらわれた美しいネックレスが入っていた。
「これ……!?」
「T大のイメージカラーである青のサファイアです。……試験が終わった後、卒業式やこれからの新しい生活で、涼香に身につけてほしくて、僕のお小遣いを貯めて買いました」
樹はネックレスを取り出すと、涼香の首後ろに回り、優しくつけてやった。
胸元で揺れる青い輝きが、夕日を受けて幻想的に光る。
「これは『未来の約束』です。試験が終わったら、これを着けて二人でどこへでも行きましょう。……だから、不安にならないでください。僕の全存在が、あなたの味方です」
涼香の目から、ぽろぽろと大きな涙がこぼれ落ちた。
それは不安の涙ではなく、胸が千切れそうなほどの幸福感と感謝の涙だった。
「……ううっ……樹くん……っ!」
涼香は樹の首元に抱きつき、子供のように声を上げて泣いた。
樹はその背中をゆっくりと撫で続け、冷たい潮風から彼女を守るように抱きしめ続けた。
しばらくして涙を拭いた涼香は、胸元のネックレスを愛おしそうに握りしめ、樹に向かって今までで一番美しく、気高い笑顔を見せた。
「……ありがとう、樹くん。私、もう迷わないわ」
涼香の瞳には、一切の陰りが消え、揺るぎない覚悟と情熱が宿っていた。
「私の全力を、あの答案用紙にぶつけてくる。そして……必ずあなたのもとに帰ってくるわ!」
「はい! 最高の笑顔で待っています!」
夕暮れの紫紺に染まる冬の海。
寄せる波の音に包まれながら、二人は静かに唇を重ねた。
潮の香りの中に混ざり合う、甘く温かい二人の息。
二人の固い誓いは、数日後に迫る最終決戦へ向けて、どこまでも気高く輝いていた。




