決戦の朝と、勝利の御守り
一月中旬、土曜日。
全国の受験生にとっての最初の天下分け目の決戦――『大学入学共通テスト』の第一日目の朝がやってきた。
夜明け前の街は、しんしんと降り積もった薄雪に覆われ、ピンと張り詰めた極寒の空気に包まれていた。
「……ふぅ……」
夏目涼香は自分の部屋の鏡の前で、制服の襟を整えていた。
鏡に映る自分の顔は少し青白く、呼吸もどこかす浅い。
これまで模試でどれだけ良い判定を出していても、本番のプレッシャーは別格だった。
マークシート一枚、鉛筆一本の滑りで人生の進路が変わってしまう。
(……大丈夫、落ち着きなさい……私は夏目涼香よ……)
自分に言い聞かせるように胸に手を当てるが、コートのポケットの中で握りしめた手指は、寒さと緊張で小さく震えていた。
ボストンバッグを抱え、涼香がマンションの玄関のドアを開けた、その時――
「涼香!」
階段の下から、白い息を大きく弾ませながら駆け上ってくる影があった。
ダッフルコートを着込み、手袋をした橘樹だった。
「樹くん……!? なんでこんな朝早くに……!?」
涼香の試験会場は自宅から電車で四十分ほどの大学だ。
集合時間よりかなり早いこの時間に、樹がここにいるはずがなかった。
「なんでって……当たり前でしょう。涼香の大切な勝負の日なんですから。一番に『行ってらっしゃい』を言いに来ました」
樹は荒い息を整えると、優しく微笑みながら、持ってきた保温バッグから二つのものを取り出した。
「これ……受け取ってください」
一つは、まだほんのり温かいアルミホイルに包まれた小ぶりなおむすび。
もう一つは――綺麗な桜色の布で作られた、手作り感あふれる小ぶりの『御守り』だった。
「これ……御守り……?」
「はい。昨日の夜、僕が自分で布を断裁して縫ったんです。中には、先日二人でお詣りした神社で受けてきた合格祈願の御札と、僕のメッセージカードが入っています」
樹が差し出した御守りをよく見ると、端の縫い目が少し歪で、不器用ながらも一針一針、心を込めて作られたことが痛いほど伝わってくる作りだった。
「……不器用だから、ちょっと形が不揃いですけど……」
照れくさそうに頭をかく樹。
その瞬間、涼香の胸の奥から熱いものが一気にこみ上げ、目の前がじんわりと潤んだ。
「……バカ……不器用だなんて……世界で一番素敵で、価値のある御守りよ……」
涼香は御守りを愛おしそうに両手で抱きしめ、胸元に強く押し当てた。
震えていた心が、不思議なほどスッと静まり、温かい体温を取り戻していく。
「おむすびは、第一期目の試験が終わった後の休憩時間に食べてください。中身は涼香の大好きな鮭と梅干しです。腹持ちが良くて、緊張を和らげるように作りました」
「ええ……! 絶対に大事に食べるわ」
涼香は御守りをバッグの目立つファスナーに取り付けると、樹の前に一歩踏み出し、彼のダッフルコートの袖をキュッと掴んだ。
「……樹くん。手……握ってくれる?」
「はい」
樹は手袋を外すと、涼香の冷たくなった右手を両手で優しく、けれど力強く包み込んだ。
「大丈夫です、涼香。あなたは誰よりも努力してきました。僕が一番近くでそれを見てきましたから。……自分を信じて、いつもの涼香で戦ってきてください」
樹のまっすぐで濁りのない瞳。
そこには、涼香への絶対的な信頼と愛が満ちていた。
涼香はゆっくりと目をつむり、樹から伝わってくる温もりに身を委ねた。
「……ええ。あなたの体温をもらったら……なんだか世界で一番強くなれた気がするわ」
涼香はそっと背伸びをし、樹の頬に自分の額をこてんと預けた。
「行ってくるわね、私の特効薬さん」
「はい! 行ってらっしゃい、涼香! ずっと応援しています!」
午前九時。試験会場の大講義室。
室内には数百人の受験生がひしめき合い、カリカリとペンを走らせる音と、緊張による独特の重苦しい空気が充満していた。
周りの受験生たちが強張った表情で参考書をめくる中、最前列近くに座る涼香は、静かに自分のデスクの上に置いた桜色の御守りを見つめていた。
(……樹くんが私のために徹夜で作ってくれた御守り……)
指先でそっと御守りに触れる。
今朝、玄関先で握りしめられた樹の手の温もりが、今もハッキリと手に残っていた。
『問題冊子を裏返してください。解答開始』
試験官の冷徹な声が響き渡る。
一斉に用紙をめくる音が響く中、涼香の琥珀色の瞳に宿っていた迷いや不安は、完全に消え去っていた。
(……待っていてね、樹くん。私たちが約束した未来のために……私の全部を見せてあげるわ!)
カツカツカツカツ――!
迷いのない手つきでマークシートを塗り潰していく『氷山姫』。
高度な思考力を要する難問も、樹と過ごした放課後やベランダでの夜食の時間を思い出すたびに、驚くほどの集中力で解き明かされていった。
二日間の長きにわたる共通テストがすべて終了した、日曜日の夕方。
試験を終えた受験生たちが、疲弊と解放感が混ざり合った表情で続々とキャンパスの正門から出てくる。
夕日に照らされた雪道の中、涼香がボストンバッグを抱えて校門を抜けると――
そこには、白い息を吐きながら、缶ココアを二つ持ってじっと立っている樹の姿があった。
「……樹くん……!」
涼香の声に気づいた樹がぱっと顔を輝かせた。
「涼香! お疲れ様――」
樹が最後まで言い切るより早く、涼香は積もった雪を蹴り散らすように駆け出し、樹の胸元へと全力で飛び込んでいった。
「きゃっ……!? 涼香!?」
「……ううっ……! 樹くん……! 樹くん……っ!」
樹の首元に顔をうずめ、背中に回した両腕にぎゅっと力を込める涼香。
「やりきったわ……! 全部……全力を出し切ってきたわ……!」
涼香の口から溢れ出たのは、達成感と安堵の嬉し涙だった。
「……よかったです。本当に、本当にお疲れ様でした、涼香」
樹は優しく微笑むと、彼女の体を包み込むようにしっかりと抱き返し、頭を何度も撫でてやった。
「御守り……ずっと握りしめていたの。あなたが隣にいてくれたから、一度も弱気にならなかったわ」
「僕の心が、ずっと涼香の隣にありましたから」
涼香は樹の胸から顔を上げると、涙で濡れた瞳で樹を愛おしそうに見上げた。
「ねえ、樹くん。二次試験まで……あと一ヶ月半よ」
「はい」
「私、絶対にT大の合格通知をあなたにプレゼントしてみせるわ。だから……二次試験が終わったら、約束の温泉旅行……絶対に連れて行ってね?」
夕暮れのオレンジ色に染まる雪景色の中で、自信と愛を取り戻した美しく気高い『氷山姫』の笑顔。
樹は力強く頷き、彼女の唇へとそっと自分の唇を重ねた。
「もちろんです。どこまでも付き合いますよ、僕の自慢の彼女」
第一関門突破。
二人の絆は、春の栄冠と二人の未來へ向かって、より一層強く、優しく輝き続けるのだった。




