初雪の夜と、ひざまくらの温もり
十一月中旬。
街路樹の葉はすっかり落ち、夜の空気が刺さるように冷え込む季節がやってきた。
T大学の推薦入試および直前模試を翌週に控え、聖華高校の三年生特進科の緊張感は極限に達していた。
「……くっ……この解法……もう一度整理し直さないと……」
夜の十時半。
夏目涼香は自分の部屋のデスクで、スタンドライトの光の下、カリカリとペンを動かしていた。
肩はガチガチに凝り固まり、寒さで指先が少し冷えている。
完璧主義の彼女だからこそ、「万全な状態で臨まなければ」という焦りとプレッシャーが、重く押し寄せていたのだ。
その時、部屋のドアがコンコンと優しく叩かれた。
「涼香。入ってもいいですか?」
橘樹の声だ。
今夜は涼香の集中力を切らさないよう、静かに見守る約束で彼女の家にやってきていたのだ。
「……ええ、どうぞ」
樹が扉を開けると、湯気が立ち上る二つのマグカップをトレーに乗せて入ってきた。
「お疲れ様です、涼香。特製の『マシュマロホットココア』を淹れましたよ」
「……ココア……?」
樹はテーブルにマグカップを置くと、涼香の手元からそっとペンを取り、彼女の細く冷たくなった手を両手でギュッと包み込んだ。
「手がすごく冷たいです……。涼香、根詰めすぎですよ。少し休憩しましょう」
「……でも、あとこの大問を解き終えないと……」
「ダメです。集中力が落ちた状態で解いても効率が下がるだけです。……ほら、僕の言うことを聞いてください」
樹のまっすぐで温かい眼差し。
涼香は「……もう、相変わらず強引なんだから……」と小さく呟いたが、素直にペンを置いた。
二人はソファーに並んで腰掛け、温かいマグカップを両手で抱えた。
ココアの上に浮かんだマシュマロがとろりと溶け、甘く香ばしい香りが部屋を満たしていく。
「……ん……温かいわ……」
一口含んだ涼香の表情が、ふっと柔らかく緩んだ。
身体の底からじんわりと緊張が解けていくのがわかる。
「美味しいです? 隠し味にほんの少しキャラメルシロップを入れたんです」
「ええ……すごく美味しい。……あなたって、本当に私の好みを全部知っているのね」
涼香はふふっと微笑むと、マグカップをテーブルに置き、吸い寄せられるように樹の膝の上に頭を乗せて横になった。
「涼香!?」
「……ひざまくら。……少しだけ、このままいさせて……」
照れ隠しに目を閉じ、樹の腿に顔をうずめる涼香。
樹は優しく苦笑すると、彼女の柔らかい黒髪にそっと手を伸ばし、指先で愛おしそうに撫でてやった。
「……ん……気持ちいい……」
涼香は安心しきった顔でうっとりと息を吐いた。
「……ねえ、樹くん」
「はい、涼香」
「私……本当は、すごく怖いの」
ぽつりと零れ落ちた、涼香の本音。
彼女は樹の手を自分の両手でぎゅっと握りしめた。
「今まで『完璧な夏目涼香』でいられたのは、努力すれば結果が出たからよ。でも……T大は違う。全国の化け物みたいな天才たちが集まる場所……。もし……もし私が落ちちゃったら……あなたに合わせる顔がないわ……」
プレッシャーに押し潰されそうになっていた繊細な心。
樹は彼女の頭を優しく撫で続けながら、静かに、けれど力強い声で語りかけた。
「涼香。受かっても、もし万が一落ちたとしても……僕にとっての涼香の価値は、何一つ変わりません」
「樹くん……」
「僕が愛しているのは、T大に受かる涼香じゃありません。僕のために一生懸命努力して、泣いて、甘えてくれる……僕の唯一無二の彼女・夏目涼香です」
樹は涼香の目を見つめ直し、まっすぐに告げた。
「結果がどうなろうと、僕は一生涼香の味方です。だから……自分を追い詰めないでください。僕がついています」
揺るぎない、無償の愛。
涼香の琥珀色の瞳から、ポロポロと大きな涙が溢れ出した。
「……っ~! バカ……ほんとうに、ずるい人……!」
涼香は膝の上から飛び起きると、そのまま樹の首元へ思い切り抱きついた。
「……大好き……! 世界で誰よりも……あなたを愛しているわ……っ!」
樹も強く彼女の体を抱き返し、彼女の涙を唇でそっと拭った。
その時だった。
ふと窓の外を見た涼香が、小さな声を漏らした。
「……あ……見て、樹くん……」
樹が振り返ると、暗い夜空から、白く小さな光の粒子がひらひらと舞い降りていた。
「……雪……?」
「ええ……初雪ね」
今年最初の初雪。
街を白く染め上げていく静寂の雪景色の中、二人はベランダの窓際に寄り添って立ち、舞い散る雪を見つめた。
寒さに少し肩をすくめた涼香を、樹は後ろからそっと包み込むように抱きしめた。
「寒くないですか?」
「ううん……あなたの胸の中が、一番温かいわ」
涼香は後ろの樹に体を預け、愛おしそうに彼の手に自分の手を重ねた。
「ねえ、樹くん。私……絶対合格してみせるわ」
琥珀色の瞳に、迷いはもうなかった。
「あなたという世界一の宝物がついていてくれるんだもの。恐れるものなんて、何一つないわ」
「はい。信じています、涼香」
二人は顔を見合わせ、引き寄せられるように唇を重ねた。
初雪が舞う静かな夜。
ココアの甘い余韻と、互いの熱い体温が混ざり合う、深く甘い誓いのキス。
決戦の冬はすぐそこまで迫っていた。
けれど、二人で紡いだ強い絆がある限り、どんな寒波もふたりの未來を凍らせることはできないのだった。




