秋の文化祭と、不機嫌な元会長
十月上旬。
校庭の金木犀が甘く芳しい香りを漂わせ、聖華高校は年に一度の文化祭(聖華祭)の準備で活気に包まれていた。
今年から新生徒会幹部として文化祭の統括を務める橘樹は、生徒会室で膨大なイベントスケジュール表と格闘していた。
「橘先輩! このステージ照明の予算案、確認していただけますか?」
「あ、うん。ありがと……うわっ!?」
新しく生徒会に入った一年生女子役員の芽衣が、樹の覗き込むパソコン画面に顔をぐっと近づけてきた。距離が妙に近く、甘いコロンの香りが鼻をくすぐる。
「えへへ、橘先輩って本当に教え方が優しくて頼りになりますね♪」
「あ、いや……普通だよ。芽衣さんも頑張ってくれて助かってるよ」
樹が少し困惑して体を引こうとした、その時――
ガチャリ。
生徒会室の重いドアが、静かに、けれどどこか重圧を伴って開いた。
「……あら。随分と楽しそうな『お仕事中』ね、樹くん?」
そこに立っていたのは――長袖のカーディガンを羽織り、分厚い赤本(過去問集)を抱えた夏目涼香だった。
琥珀色の瞳は極小の温度まで冷え切り、凍てつくような『氷山姫』のオーラが部屋中に広がっていく。
「な、夏目元会長……!?」
芽衣をはじめとする一年生役員たちが、一瞬で背筋を伸ばして固まった。
前會長として全校生徒から恐れられ、神聖視されていた涼香の威壓感は伊達ではない。
「涼香! 勉強の息抜きですか?」
樹が慌てて立ち上がると、涼香はカツカツとヒールの音を響かせて樹のデスクへと歩み寄った。
「ええ。少しあなたに会いたくなったから寄ったのだけれど……お邪魔だったかしら? かわいい『後輩ちゃん』と仲良く談笑されていたみたいだけど」
「違いますよ! 文化祭のステージ照明の確認をしていただけです!」
「ふ~ん……そう。画面を見るのに、あんなに顔を近づける必要があったのかしらね?」
涼香はジト目で樹を睨みつけると、迷うことなく樹の椅子の手すりに腰掛け、全役員の目の前で樹の首元に両腕をギュッと絡めてきた。
「あっ……涼香!? みんなが見てますよ!?」
「いいのよ。私はただ……疲れたから、私の『専属の彼氏』に充電してもらっているだけだもの」
堂々たる彼女宣言。
芽衣を含めた一年生役員たちは「えええええっ!? 橘先輩と夏目先輩って付き合ってたの!?」と驚愕の表情で固まっている。
涼香は芽衣に向かってフッと美しく、けれど絶対に敗北を許さない笑みを浮かべた。
「後輩さん。樹くんは優しすぎて断れない性格だから……あまり個人的に距離を詰めすぎないように気をつけつけて頂戴ね? 私……嫉妬深い方だから」
「は、はいっ! 申し訳ありませんでしたっ!」
威壓感と美しさに圧倒され、逃げるように作業に戻る一年生たち。
涼香は満足そうにツンと顎を上げると、樹の耳元でキュッと腕に力を込めた。
放課後。夕暮れの生徒会室。
他の役員たちが準備のために体育館へ向かい、部屋には二人きりの時間が訪れていた。
「……涼香。さっきのはやりすぎですよ。芽衣さんもびっくりしてましたし……」
樹が苦笑いしながら書類を整えていると、ソファーに座っていた涼香がプイッと横を向いた。
「……何よ。私が嫉妬したら悪いの?」
「え?」
「だって……最近、受験勉強ばかりであなたと全然話せていなかったでしょう?」
涼香はお膝の上に置いた赤本をギュッと抱きしめ、琥珀色の瞳を涙目で潤ませながら樹を見上げた。
「久しぶりに会えたと思ったら……知らない女の子と楽しそうにしていて……私、すごく嫌だったの。……私がいない間に、あなたが遠くに行っちゃうみたいで……」
強がりな『氷山姫』のメッキが剥がれ、溢れ出す素直な寂しさと独占欲。
樹の胸の奥が、愛おしさで締め付けられた。
樹は作業を止めると、涼香の前にかがみ込み、彼女の両手を優しく包み込んだ。
「涼香。僕が目移りなんてするわけないじゃないですか」
「……ほんとう?」
「当たり前です。僕の心の中には、最初から最後まで涼香しかいません。どれだけ忙しくても、僕が一番愛しているのは涼香です」
樹がまっすぐな瞳で告げると、涼香の頬がポッと桃色に染まった。
「……バカ。……そういうことを平然と言うんだから……」
涼香は手袋を取るようにそっと手を解くと、樹の首元に抱きつき、彼の膝の上にちょこんと乗ってきた。
「……お返し。さっきの焼きもちの分……私を甘やかしなさい」
「ふふ、喜んで」
樹は涼香の腰をそっと抱き寄せ、彼女の柔らかい黒髪に何度も優しくキスを落とした。
「……ん……樹くん……」
涼香は樹の胸元に顔をうずめ、安堵したように深く息を吐いた。
「文化祭……私、見に行くわね。あなたが頑張って作っている生徒会のステージ……一番前で見届けるわ」
「はい! 最高の文化祭にしますから、楽しみにしていてください」
「ええ。……だから、他の女の子に見とれちゃダメよ?」
「約束します」
夕陽が差し込む静かな生徒会室で、二人はゆっくりと唇を重ねた。
秋の風が運ぶ金木犀の香りと、甘い嫉妬の余韻。
二年生と三年生、それぞれの立場での文化祭。
すれ違いを乗り越えるたびに、二人の絆はどこまでも深く、愛おしく結ばれていくのだった。




