高原の夏合宿と、ポケットの秘密の手紙
八月上旬、真夏の太陽が輝く季節。
聖華高校の三年生特進科は、長野県・志賀高原での『七泊八日・限界突破夏期集中勉強合宿』を迎えていた。
スマートフォンや個人用電子機器の持ち込みは一切禁止。
朝六時から夜十時まで、食事と風呂以外はひたすら自習室に籠もるという、受験生にとってまさに苦行とも言える地獄の集中合宿である。
「……はぁ……もうダメ……樹くん不足で死んじゃうわ……」
合宿三日目の夜、志賀高原の涼しい星空を見上げながら、夏目涼香は自室のベッドの上で抱き枕をぎゅっと抱きしめていた。
いくら涼しい高原とはいえ、朝から晩まで難解なT大の過去問と向き合い続ける毎日。
そして何より、大好きな樹と声も聞けず、メッセージも交わせないという環境は、樹依存症の涼香にとって何よりの拷問だった。
「涼香、消灯時間よ。早く寝ないと明日持たないわよ?」
同室の女子生徒に声をかけられ、涼香は「ええ、分かっているわ……」と力なく返事をした。
その時だった。
涼香が着替えるために自分のボストンバッグの底を探っていると、カバンの内ポケットに――見覚えのない、綺麗に折られた薄いブルーの手紙が入っていることに気づいた。
「これ……?」
そっと手紙を開くと、そこには整った見慣れた文字で、こう書かれていた。
『涼香へ。
この手紙を読んでいるということは、きっと合宿三日目くらいで「樹くん不足」になって限界を迎えている頃でしょうか(笑)。
合宿に向かう前夜、涼香が僕の部屋にバッグを置いてお風呂に入っている間に、こっそり忍ばせておきました。
一週間、声も聞けなくてごめんなさい。でも、涼香が志賀高原で頑張っている間、僕も東京の生徒会室で二年生の夏課題と生徒会の秋企画を全力で終わらせています。
離れていても、僕の心はいつも涼香の隣にいます。
涼香は世界で一番カッコよくて、美しい僕の自慢の彼女です。
挫けそうになったら、制服の右ポケットを探してみてください。
橘 樹より』
「……っ~! バカ……バカ樹……!」
涼香の胸の奥が、熱い愛おしさで一気に満たされた。
手紙を胸元に抱きしめると、涙がぽろぽろと零れ落ちた。
涼香はすぐにクローゼットから、合宿に持参していた学校の制服のブレザーを取り出し、右ポケットにそっと手を入れた。
指先に触れたのは――小粒の個包装された高級な果汁グミと、もう一つの小さなメモ用紙だった。
『疲れた時に糖分補給してください。合格したら、志賀高原じゃなくて、二人でゆっくり星を見に来ましょうね。約束です』
「……ほんとうに……どこまで私を夢中にさせれば気が済むのよ……」
涼香はグミを一粒口に含むと、甘酸っぱい葡萄の風味が口いっぱいに広がった。
樹の優しさ、温もり、そして自分を信じてくれている強い眼差しが、鮮明に脳裏に蘇ってくる。
重く沈んでいた心が、嘘のように軽くなっていくのが分かった。
翌朝。自修室。
周りの受験生たちが疲労とストレスで暗い表情を浮かべる中、涼香の琥珀色の瞳には、再び凛とした強い光が宿っていた。
カツカツカツ、と迷いのない手つきでペンを走らせ、難問を次々と解き明かしていく。
その姿は、かつて校内を震撼させた『氷山姫』そのものだったが――その胸のポケットには、樹の手紙と小さなグミが大切にしまわれていた。
(……待っていてね、樹くん。私、絶対に負けないわ)
五日後。合宿最終日の夕方。
一週間の試練を乗り越え、東京行きの大型バスが聖華高校の校門前に到着した。
疲弊しきった様子でバスから降りてくる三年生たち。
涼香が大きなボストンバッグを抱えてバスを降りると――校門の陰で、汗をかきながら立っている一人の男子生徒の姿があった。
「……樹くん!?」
樹は涼香の姿を見つけると、ぱっと表情を明るくして駆け寄ってきた。
「涼香! お帰りなさい!」
「な……なんでここにいるのよ!? 部活も生徒会も終わっている時間でしょう!?」
「涼香が帰ってくる時間を新生徒会長に聞いて……どうしても一番に『お疲れ様』って言いたくて、ずっと待っていたんです」
夏の夕日を浴びながら、少し日焼けした笑顔で答える樹。
その瞬間、涼香は周りの生徒や先生の目など完全に見失っていた。
ボストンバッグを地面にぽいと放り投げると、樹の胸元へと全力で飛び込んでいった。
「きゃっ……!? 涼香!?」
「ううっ……! 樹くん……! 樹くん……っ!」
樹の首元に強く腕を回し、彼の体温と匂いを全身で吸い込む涼香。
「寂しかった……! すごくすごく会いたかった……! 手紙……すごく嬉しかったわ……!」
「……僕もです、涼香。すごく会いたかったです」
樹も優しく微笑むと、周りの視線を気にしながらも、彼女の細い腰をしっかりと抱き返した。
一週間の離散を経て、二人の絆はより一層深く、熱く結ばれていた。
抱き合ったまま、涼香は樹の耳元でそっと囁いた。
「……今夜は、私のお部屋から絶対に帰さないから……覚悟しておきなさいね?」
「……はい、喜んで」
真夏の夕空の下、試練を乗り越えた二人の甘い季節は、まだまだ終わらないのだった。




