初夏の模試と、ベランダの夜食
六月に入り、梅雨の晴れ間にのぞく日差しが日ごとに夏らしさを帯びていく季節。
聖華高校の図書室や生徒会室には、放課後になると受験勉強に励む三年生たちの張り詰めた空気漂っていた。
「……ふぅ……」
生徒会室のデスクで分厚い問題集と向き合う夏目涼香は、手元の帳票を見つめたまま、重い溜め息をついた。
そこに書かれていたのは、先日受けたT大学全国冠模擬試験の判定――『C判定』。
これまで何事も完璧にこなしてきた涼香にとって、その文字は胸を大きく押し潰すような重圧となっていた。合格ラインには届いておらず、ケアレスミスも重なっていたのだ。
(……ダメね。もっとやらないと……樹くんとの約束を守れなくなっちゃう……)
焦りから、ペンの動きがどんどん荒くなっていく。
その様子を、向かいの席で生徒会の書類整理をしていた橘樹は、静かに、けれど心配そうに見守っていた。
いつもなら樹の手を握って甘えてくる涼香が、今日は一度も樹と目を合わせようとしない。
一人で痛みに耐え、強がっている彼女の背中が、どこか小さく見えた。
その日の夜、十一時。
樹は自分の部屋のキッチンで、手際よく料理を作っていた。
出汁の優しい香りが部屋いっぱいに広がる。
料理を保温容器に詰めると、樹はベランダのサッシをそっと開けた。
隣の涼香の部屋のカーテンからは、まだ明かりが漏れている。
トントン、と樹が涼香のベランダの窓を優しく叩いた。
数秒後、カーテンがそっと開かれ、スウェット姿で疲れた顔をした涼香が姿を現した。
目の下にはうっすらとクマができており、髪も少し乱れている。
「……樹くん? こんな遅くにどうしたの……?」
「涼香。少し、夜風に当たりませんか? 温かいものを作ってきたんです」
樹が微笑むと、涼香はおずおずとサッシを開け、ベランダの小さなベンチに樹と並んで腰掛けた。
初夏の夜風が、二人の頬を優しく撫でていく。
「はい、これ。……特製の『お出汁の優しいきつねうどん』です」
樹がフタを開けると、湯気とともにカツオと昆布の香ばしい匂いが立ち上った。
ふんわりと揚げられた油揚げと、綺麗な緑色のネギが添えられている。
「……夜遅くに食べたら、太っちゃうわよ……」
涼香はツンと口を尖らせたが、樹はお箸を優しく彼女の手へと持たせた。
「一口だけでも食べてみてください。涼香、今日お昼もろくに食べてなかったでしょう?」
「……う……気づいていたのね……」
涼香はおずおずとお箸を進め、フーフーと息を吹きかけてうどんを一口口に運んだ。
「……ん……っ」
もちもちとした麺と、じんわりと心とお腹に染み渡る出汁の甘さ。
その瞬間、涼香の目からボロボロと大きな涙が零れ落ちた。
「涼香……!?」
「……美味しい……すごく……優しい味がするわ……っ」
涼香はうどんの器を抱え込み、ポロポロと涙をうどんのスープに落としながら、一心不乱に食べ進めた。
「……私ね……今日、すごく悔しかったの……」
箸を止め、涼香は膝の上に置いた自分の拳をギュッと握りしめた。
「T大の模試……C判定だったわ。ケアレスミスばかりで……全然ダメだったの。……あなたに『すごいね』って言ってもらえる私でいたかったのに……こんなんじゃ、T大なんて受かるわけないじゃない……!」
完璧主義の『氷山姫』が抱え込んでいた、不安と挫折感。
樹に失望されたくないという、あまりにも健気で愛おしいプライド。
樹は器を静かにテーブルに置くと、震える涼香の身体をそのまま横からギュッと抱きしめた。
「……っ、樹くん……」
「涼香。C判定なんて、すごく立派ですよ。初めての冠模試でそこまで取れる人なんて、ほんのひと握りです」
樹は彼女の頭を優しく撫でながら、耳元で温かく語りかけた。
「僕が好きなのは『完璧な夏目涼香』じゃないです。悔しくて泣いたり、僕に甘えたりしてくれる……『ありのままの涼香』です」
「……樹くん……」
「ミスをしたなら、これから僕と一緒に修正していけばいいじゃないですか。一人で抱え込まないでください。僕たちの目標なんですから」
まっすぐで、包み込むような愛。
涼香は樹の胸元に顔を深くうずめ、彼の服をぎゅっと掴んで声をあげて泣いた。
「……ううっ……樹くん……! 寂しかった……! 勉強ばかりで……あなたに甘えられなくて……すごく苦しかったの……っ!」
「ごめんね、涼香。もっと早く気づいてあげられなくて」
樹は抱きしめる腕に力を込め、彼女の涙を自分の指先で何度も拭った。
しばらくして、涙を拭った涼香は、すっかり軽くなった表情で樹を見上げた。
「……ふぅ。泣いたら、なんだかスッキリしちゃったわ」
「よかったです。お汁まで全部食べてくれましたね」
「当たり前でしょう。あなたが私のために作ってくれたんだから……一滴も残すわけないじゃない」
涼香はふふっと柔らかく微笑むと、樹の膝の上に頭を乗せ、そのままゴロンと横になった。
「涼香!?」
「……ひざまくら。充電させて」
照れ隠しにツンと顎を上げる涼香。
樹は困ったように笑いながらも、彼女の綺麗な黒髪にそっと手を通し、優しく撫でてやった。
「……ん……気持ちいいわ……」
涼香はうっとりと目を細め、樹の手を自分の両手でギュッと包み込んだ。
「ねえ、樹くん」
「はい、涼香」
「私……やっぱり、絶対T大に合格してみせるわ。……あなたという世界最高の味方がついていてくれるんだもの。負けるわけにはいかないわ」
琥珀色の瞳に、再び強い光と自信が戻っていた。
「はい。僕も全力で支えます。……でも、無理しすぎは禁物ですよ? 疲れたら、いつでもこうやって夜食を作りますから」
「……ふふ、約束よ? ……あ、でも、太ったらあなたのせいなんだからね」
「その時は、一緒にランニングしましょう」
二人は顔を見合わせ、夜の風の中でクスッと笑い合った。
涼香は少し背伸びをし、膝の上から樹の唇へとそっと唇を重ねた。
出汁の温もりと、ほんのり甘い夜のキス。
受難の受験期。けれど、ベランダで交わされるこの温かい時間がある限り、二人の絆が揺らぐことはない。
初夏の星空の下、二人は再び手を取り合い、合格という未来へ向かって歩み直すのだった。




