桜舞う新学期と、図書室のひそやかな時間
四月上旬。
聖華高校の校庭には、満開の桜が咲き誇り、春の柔らかい風が吹くたびに淡いピンクの花びらが舞い散っていた。
新学期の始業式が終わり、校舎の掲示板の前は新しいクラス発表を確認する生徒たちで賑わっていた。
「……ふぅ、今日から二年生か」
橘樹は自分の名前を確認し、小さく息を吐いた。
後輩が入学してきたことで、自分ももう「新人」ではない。そして何より――大好きな彼女・夏目涼香が、勝負の三年生(受験生)になったのだ。
「樹くん」
階段の踊り場から、聞き慣れた愛おしい声がした。
振り返ると、そこには新しい三年生の名札を胸につけた涼香が立っていた。
髪を少し整え、春の光を浴びたその姿は、相変わらず校内の誰もが息をのむほど洗練され、美しい。
「涼香。二年生になりました」
「おめでとう、樹くん。……ふふ、少し背が伸びたかしら?」
涼香は嬉しそうに目を細めると、周囲に人がいないのを確認してから、そっと樹のジャケットの袖を引っ張った。
「……今日から、私は受験生よ。生徒会も正式に引退したわ」
「はい。寂しくなりますね……生徒会室で涼香の姿が見られなくなるのは」
「ふふ、どうかしらね?」
涼香は悪戯っぽく琥珀色の瞳を輝かせると、カバンの中から一枚の書類を取り出して樹に手渡した。
「これ……『生徒会幹部推薦状』……? 樹くん宛て……!?」
驚く樹に向かって、涼香は自慢げに胸を張った。
「ええ。新生徒会長と相談して、私の後任としてあなたを生徒会幹部に推薦しておいたの。断るなんて言わせないわよ?」
「ええっ!? 僕がですか!?」
「当たり前でしょう。あなたが生徒会に入ってくれれば……放課後、受験勉強をする私と同じ空間にいられるじゃない」
涼香は顔を少し真っ赤にしながら、ツンと顎を上げた。
「……私ね、図書館で一人で勉強するのは寂しいの。だから……生徒会室の隅っこで勉強させてもらうことにしたのよ。……文句、あるかしら?」
自分の勉強時間を確保しつつ、樹との接点を絶やさないための……涼香なりの、必死で可憐な暗躍。
樹の胸の奥が、愛おしさで熱くなった。
「文句なんてあるわけないです!喜んで引き受けます、僕の元・会長」
「……もう、会長じゃないわよ。……『涼香』って呼びなさい」
二人は顔を見合わせ、桜舞う廊下でクスッと笑い合った。
放課後。静まり返った生徒会室。
新体制となった生徒会の仕事を覚えるため、樹は机で書類の整理に追われていた。
そして、そのすぐ隣の長机には――分厚い参考書と問題集を広げ、真剣な眼差しでペンを走らせる涼香の姿があった。
カツカツ、とシャープペンの芯が紙を叩く音だけが部屋に響く。
普段の甘えたがりの姿から一変、難関「T大学」を目指して真剣に問題に向き合う涼香の横顔は、凛としていて、息をのむほど美しかった。
(……涼香、すごく集中してるな。邪魔しちゃ悪いな……)
樹がそっと自分の作業に戻ろうとした、その時――
トン、トン。
樹の制服の裾が、下からキュッと引っ張られた。
見下ろすと、涼香が問題集から目を離さず、けれど左手をそっと樹の方へと伸ばしていた。
「……手」
「え?」
「手……握っていて……。そうじゃないと、集中力が切れそうなの……」
消え入りそうな声で、上目遣いにねだってくる涼香。
真剣な受験生の顔と、樹に甘えたい彼女の顔が同居している。
樹は微笑むと、自分の右手で涼香の細く柔らかい左手を包み込むようにギュッと握りしめた。
「これで大丈夫ですか?」
「……ん。すごく……落ち着くわ」
涼香は樹の手を握り返すと、安心したように小さく息を吐き、再び右手でペンを走らせ始めた。
樹は右手で彼女の手を握りながら、左手だけで書類のチェックを続けた。
少し不便ではあったけれど、伝わってくる彼女の体温と、真摯に努力する彼女の呼吸が、樹にとっても何よりの幸福だった。
一時間後。
「ふぅ……今日の目標ページ、終わったわ……」
涼香がペンを置き、大きく背伸びをした。
そして、そのまま樹の肩へとこてんと頭を預けてきた。
「お疲れ様です、涼香。すごく集中してましたね」
「ええ……あなたのおかげよ。樹くんの手が温かくて……すごくパワーをもらえたわ」
涼香は樹の肩に顔をすり寄せ、琥珀色の瞳を潤ませながら樹を見上げた。
「ねえ、樹くん。私……これから一年間、ずっとこんな風に余裕がなくなっちゃうかもしれない。デートも行けないし、我慢ばかりさせちゃうかもしれない……」
ふっと見せる、受験生としての不安と申し訳なさ。
樹は繋いでいた手を少し強めに握り返し、彼女の目を見つめ返した。
「何言ってるんですか。放課後、こうやって一緒にいられるだけで僕には最高のデートですよ」
「樹くん……」
「僕が生徒会に入ったのは、涼香の努力を一番近くで応援するためです。だから、我慢なんて思わないでください。涼香が合格するその日まで、僕がずっと手を握っていますから」
真っ直ぐで、偽りのない言葉。
涼香の瞳からポロリと一粒の涙が零れ落ち、彼女は嬉しそうに目元を綻ばせた。
「……ずるい人。……そんなこと言われたら、私、もっと頑張るしかないじゃない……」
涼香は背伸びをし、樹の唇へとそっと自分の唇を重ねた。
夕日が差し込む生徒会室で交わされる、春風のように優しく甘いキス。
参考書と書類に囲まれた空間で、二人の新しい日常が始まった。
受難の受験期。けれど二人なら、どんな高い壁も、甘い絆で乗り越えていける。
桜の季節とともに、二人の未来へ向けた新しいページが開かれたのだった。




