ホワイトデーのサプライズと、春風の決意
三月十四日、ホワイトデー。
校庭の桜の蕾がほんのりとピンク色に膨らみ始め、春の訪れを予感させる暖かな風が吹き抜けていた。
橘樹は、カバンの底に大切にしまった手提げ袋を何度も確かめながら、放課後のチャイムを聞いていた。
(……涼香、喜んでくれるかな)
一ヶ月前のバレンタインデー。屋上で涼香から受け取った、涙と愛情の詰まった本命トリュフチョコレート。その時もらった溢れんばかりの愛に少しでも応えるため、樹はこの一週間、秘密裏にある準備を進めていたのだ。
「樹くん、お待たせ」
生徒会室のドアが開き、夏目涼香が姿を見せた。
冬のコートを脱ぎ、春らしい薄手のカーディガンを羽織った彼女の佇まいは、相変わらず校内の誰もが目を奪われるほど可憐で美しい。
「いらっしゃい、涼香。……今日は、僕の部屋……じゃなくて、涼香のお部屋に行ってもいいですか?」
「ええ、もちろんよ。……私のお部屋で、二人きりで過ごしましょう」
涼香は琥珀色の瞳をキュートに細め、樹の手に自分の手をそっと重ねてきた。
涼香のマンションの部屋。
何度も訪れたこの部屋は、二人にとって世界で最も落ち着く安全地帯だった。
ソファーに並んで腰掛け、温かい紅茶を淹れた後、樹はカバンから大切に取り出した小さな箱を涼香の前に置いた。
「涼香。……バレンタインのお返しです」
涼香の目がパッと輝いた。
「開けてみてもいいかしら?」
「はい、どうぞ!」
涼香が丁寧にリボンを解き、箱のフタを開ける。
そこに入っていたのは――薄ピンク色と白色の上品な『手作りアイシングクッキーとマカロンの詰め合わせ』だった。
クッキーの一枚一枚には、繊細なチョコペンで桜の花びらや、小さく『Thank you, Suzuka』の文字が描かれている。
「これ……樹くんが作ったの!?」
涼香は驚きのあまり目を見開き、信じられない様子で樹とクッキーを交互に見つめた。
「はい。料理やお菓子作りは涼香ほど上手じゃないので……夜遅くまでクックパッドと格闘しながら、何十回も焼き直しました。形は少し不揃いかもしれませんけど……僕の気持ちを、全部込めました」
「……樹くん……」
涼香は愛おしそうにマカロンを一つ指先で摘まみ上げると、そっと口元へと運んだ。
サクッとした軽やかな食感の後に、甘酸っぱいストローベリーグラスが口いっぱいに広がる。
「……すごく……美味しいわ……。生地もサクサクで、甘さも私好みに控えめで……」
涼香の目から、ポロポロと大きな涙が溢れ出してきた。
「り、涼香!? 涙……!? まずかったですか!?」
「バカ……! 美味しすぎて……嬉しすぎて泣いているんじゃないの……!」
涼香はクッキーの箱をテーブルに置くと、樹の胸元へ思い切り飛び込んできた。
「……私のために……そんなに頑張ってくれたのね……。忙しいのに、夜遅くまで……」
「当たり前ですよ。涼香が僕にくれたものに比べたら、これくらい全然大したことないです」
樹は愛おしさで胸がいっぱいになり、泣きじゃくる涼香の背中を優しく包み込んだ。
「涼香、クッキーの言葉……読みましたか?」
「え……?」
涼香が涙を拭いながら箱の中をもう一度覗き込むと、一番大きなハート型のクッキーには、日本語でこう書かれていた。
『ずっと、涼香の隣にいます』
「……っ~!」
涼香は顔を真っ赤にし、樹の首元に両腕をぎゅっと回してきた。
「ずるい……こんなのズルすぎるわよ……! また私をこんなに夢中にさせて……どう責任取ってくれるのよ……!」
「責任なんて、一生かけて取りますよ」
樹が優しく囁くと、涼香は上目遣いに樹を見つめ、小さく唇を尖らせた。
「……じゃあ、今すぐ……お返しのキスをしなさい。クッキーよりも甘い奴を……」
甘くて可憐なおねだり。
樹は微笑むと、彼女の涙を指先で優しく拭い、重なり合うように唇を重ねた。
苺と砂糖の甘い香りが混ざり合う、至福のホワイトデーのキス。
一度離れては、互いの愛を確かめ合うように何度も何度も深く重ねられた。
陽が沈み、部屋の中に夕闇が広がっていく。
キャンドルの優しい灯りを点けた後、二人はソファーで身を寄せ合いながら、静かに紅茶を飲んでいた。
涼香は樹の肩に頭を預け、ポツリと語り始めた。
「……ねえ、樹くん」
「はい、涼香」
「私……進路を決めたの」
樹の身体が少し緊張で強ばる。
三年生への進級を前に、涼香が下した人生の選択。
「私ね……都内のT大学の法学部を目指すわ」
「T大学……! 日本でもトップクラスの難関大学じゃないですか……!」
樹が驚いて涼香を見つめると、彼女は琥珀色の瞳に強い光を宿して微笑んだ。
「ええ。とても厳しい受験になると思う。でもね……私、将来は弁護士になって、困っている人を助ける仕事がしたいの。……そして何より」
涼香は樹の手を強く握りしめた。
「T大学なら……ここから電車で通えるわ。あなたと離れ離れになって、遠距離恋愛になることもないの」
樹の胸の奥が、激しい感動と熱い想いで震えた。
彼女は自分の夢のため、そして何より『樹と離れない未来』のために、一番険しく、けれど一番前向きな道を選んでくれたのだ。
「涼香……!」
「ふふ、驚いた? でもね、これからの一年間は本当に勉強漬けになると思うわ。生徒会も引退するし、あなたに寂しい思いをさせちゃうかもしれない……」
「させられません!」
樹は力強く言葉を遮り、涼香の両肩をしっかりと掴んだ。
「涼香が本気で目指すなら、僕が全力でサポートします! 勉強の息抜きも、体調管理も、全部僕に任せてください! 涼香が頑張る姿を、一番近くで応援させてください!」
樹のまっすぐで力強い眼差し。
涼香は一瞬圧倒されたように目を丸くし、それから……心底愛おしそうに目元を和らげた。
「……ありがとう、樹くん。あなたとなら……どんな高い壁も越えられる気がするわ」
涼香は樹の頬を包み込み、自分の額を樹の額へとそっと押し当てた。
「約束して。来年の春……私が合格したら、今度はもっと遠くへ……二人だけで旅行に行きましょう」
「はい! 絶対に約束です!」
窓の外には、新しい季節を告げる春の風が静かに吹き抜けていた。
先輩と後輩、受難と試練の三年生受験期へ。
二人の愛は、どんな困難にも負けない強い絆となって、輝かしい未来へと向かって歩み出していた。




